1999年8月7日(土)の○と×

今日のZIPPO

 手の中に、ジッポーがある。
 使い初めてから十年以上が経過している。クローム仕上げなので傷は目立つが、いつまで経っても使い込んだという表情をみせてくれない。5年前に買ったブラスのヘアラインフィニッシュは、あちこちが擦れて適度な媚びを見せているというのに。
 一度ヒンジを壊して日本総代理店まで修理に出したことがある。ハワイ土産の安物、いくら生涯補償(lifetime guarantee)とは言えわざわざそこまでするほど手に馴染んでいたわけでもなかった。
 このジッポーは祖母からもらったものだ。といっても祖母自身の土産物ではない。若い女性が中心だった祖母の職場では適当な引取先が見つからず、たまたまお気に入りのRENOMAが壊れてマッチ派に転向しようとしていた僕のところでうまく止まった、それだけのことだ。だから特に思い入れもなく、2個セットだった片方は当時煙草を吸い始めていた後輩に譲ってしまった。
 親指でボディをこすったときの感触が麻雀牌の一筒にそっくりなせいで妙に後輩たちにはウケていたが、僕自身は取り立てて大事に扱っていたわけでもなかった。落としたり店に忘れたりしなかったのは、単なる偶然だ。
 特別な意味を持ち始めたのは、やはり祖母が死んでからだと思う。
 意識したわけではなかったが、暫くの間は引き出しの奥にしまって使わずにいた。
 忙しい毎日は色々な事を忘れさせる。そしてそれを思い出させるきっかけというのは、往々にして人ではなく物であったりするものだ。
 このジッポーに祖母との思い出はない。ただ「使うんやったらあげる」と言われたとき、それほど嬉しくもなかったけど喜んでおいた方がいいよな、と愛想笑いを浮かべた自分の思考を辿り直すだけだ。
 祖母にもらったものは、もちろんこれだけではない。ただ他の物が目に見えて衰え行くのに対し、こいつは手に馴染まない代わりにいつまでも平気な顔を見せている。だから僕はこのジッポーを見るたび、他の親族と同様に年を経ても丸くならなかった祖母を思い出してしまうのかも知れない。
 祖母と一緒に暮らした年数を超えたとき、このジッポーはまだ現役でいるだろうか。
 そのときまでには、多少なりとも僕の手に馴染んでくれるとうれしい。

今日の○

 なーんて「静物としての生物」をちょっと意識してみたりする。

今日のX

 なーんて事を思っているうちに一日が過ぎた。