「 震災 」一覧

あの場所へ、もう一度。

この地区へ足を踏み入れるのは10年ぶりだ。
「その前」と「直後」を知っているからこそ、他の場所とはいえ「復興にかかるやりきれないあれこれ」に携わったからこそ、「その後」に向き合うのはとても怖い。もし新しい職場がこれほど近くなければ、あるいはまったく関わりのない仕事であったなら、ずっと見て見ぬふりをして過ごしていくのだろう。

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2005年1月17日(月)の日記

今日の懐メロ95 OSR2

My Sharona
THE KNACK
“Get The Knack” [1979]

 リバイバルヒットしたのはいつごろだっけ。「洋楽ブーム」の幕開けとしてBlondieのCall meと並び称される超絶ヒット。
 しかし困ったことにオイラがマイシャローナで思い出すのは江口寿史Go Ahead!だったりします。先ちゃんの漫画を読むようになったのは、山下“現人神”達郎さまの3rdを本歌にしたこの作品(のタイトル)を見て以降。その後のひのまる劇場ではやっぱりMOONGLOWを持ち出したり、ひばりくんEIZINさん永井画伯の画風を取り込んだりと当時リア厨だったオイラのツボをきっちり突いてきておりました。
 つーわけでナック自体はZoom買うまではマジメに聴くこともなかったという次第。

せめて今日ぐらいは

 「ヘリコプター取材自粛」ぐらいの気を利かせてもバチはあたらんだろうに。


2004年1月17日(土)の日記

なにをどう間違えたか

 浜崎あゆみのAYU Ready?という番組を見たら、バービーのエンリケと野村のよっちゃんが浜崎のバックバンドやってた。
 正直、かなりショック。

姉と甥が

 従妹夫婦宅@吹田を襲撃中。年末はジッカ方面で入れ替わりだったこともあり三宮にて晩飯なぞ。
 でも結構混んでそう。まだヘリコ飛んでるしー。

コナミ・タカラ、新商品を合同発表

 スティック型ドラムマシンのWE LOVE DRUMは楽しそう。
 最近この手の打楽器オモチャが減ってる気がするの。

SONY VAIO HX

 VAIO HSの後継機種レビュー。
 ひょっとしてとうとう液晶ペンタブ廃止ですか?(;´Д`)
 Tablet PCもしくはCintiqを買えと? 泣くぞ。

こうして頑張って5時まで起きているわけだが

 さて、東遊園地へはチャリで行くか阪神電車にするか。
 寒いけど地下を往くのはなんとなく厭な感じ。

バッタもんとパチもん

 全部カタカナにしたらポケモンと間違えそうになったので後半ひらがな。
 バッタモン=パチモンとしているのが意外と多く、相違点を記したものもその見地はまちまちだったりして疑問は解消しない。
 関西在住15年を経過した非関西人のワタクシ、使い分けの現状はこんな感じで。

『パチもん』
 『粗悪コピー』。ネタをパチった商品。模倣は高額商品に限らない。本家とそこそこいい勝負の値札。騙されて、あるいはオリジナルを知らずに買う。
『バッタもん』
 『出所の怪しげな商品』。大抵は皮革製品。値札は本家より大幅に安い。「類似の廉価品」を含むが低品質とは限らない。納得して買う。

 「真似してなくても粗悪であればパチもん」とか「放出・流出品=バッタもん」という論も聞くが、ニュアンス的には上のような感じで使っている。だからバッタもんという言葉の利用頻度はパチもんよりかなり低い。
 でも「同義ではない」という認識までで止まってるっぽいな。


2003年1月17日は金曜日。

Fony Clie PEG-NR70Vic

 激しく笑うた。ネタはpocketgamesより。

ニュースEyeランド拡大版

 だからこっちではサンテレ入らんのやって。
 ふと空を見ると、星が透ける程に薄く広がった雲をバックにした怪しい月傘。そして昨日までの冷え込みが嘘のような暖かさ。
 そういえば震災の前の日っていきなり暖かかくなって気持ち悪かったっけ。疲れ果ててて感度悪くなってたけど、予兆現象は山ほど出てたんだよなあ。

5時46分

 までに仕事終わるかな……。

ショッピングバス新年度も継続へ

 レインボー循環は9時台~20時台という運行ダイヤをせめて一時間ずつ拡張したらそれなりに利用客数は確保できると思うがなあ。コトデン本体との関係でも駅間広いところを縫って走ってるからそれほどバッティングしないだろうし。


2001年1月16日(火)の○と×

うちへのこっそリンク、数件発見。
週末に捕獲予定。

アンカーは16日ですが、実際は17日に書いていますので。
最近、よく揺れます。
地震からは、もう6年が経ちました。自分自身はちょうど大阪に引っ越したところでしたので、実はそれほどダメージを受けていなかったりします。ただ、大阪での暮らしには微妙に慣れなかったせいもあり、当時はほとんど毎日のように「神戸に戻りたい」などとつぶやいてたことを覚えています。
某嬢とは違ってその気になれば戻れたんですが、当時は借金を返すのに手一杯で引っ越しどころじゃありませんでした。近くて遠い神戸に、それでも月に一度遊びに行くのが数少ない楽しみのひとつでした。
直後「帰るところが無くなった」と思いました。この思考、神戸出身でもない自分としてはちょっと異常じゃないかと後で思いましたが、強烈な喪失感はしばらく消えることがありませんでした。
震災ボランティアに参加しようと思ったこともありました。職場自体が復興に深く関わる立場にあり、それを理由に自分を押しとどめましたが、春に入社してきた新人が「先週までボランティアをしていた」という話を聞き、心中穏やかでなかったのも確かです。
三宮やハーバーランドの盛況振りに「復興は成った」と思われるかも知れません。しかし、いわゆる地元の商店街で「構えだけが整った薄ら寒い街」になってしまったところも多いように思います。
安全な居住の確保が最優先されることはわかりますし、震災以前からこのような傾向は確かにありました。学生時代、六甲周辺の飲食店ガイド作成に向けた取材をしていた頃にも、「僕の好きな神戸はどんどん無くなっていくのかも知れない」という不安は払拭できずにいました。
うわべだけ、空元気だけの復興は街が疲弊する──これは本音だったりします。
そうならないようにするのが自分の仕事であることを思い出しつつ、大好きな神戸に戻ってきた今こそ、その関わり方を考え直す時期かも知れないと思ったりしています。