「 昔の日記 」一覧

2001年1月24日(水)の○と×

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 あーもぉ、申し開きのしようもないです>久々野さんコウコウさん
 誕生日に間に合わなかったのはすべてワタクシの不徳の致すところであり。

 ちえみんにも悪いコトしたなあ。アクセス状況を見ると色々期待されていたようだし(REFERERのないアクセス多数)

 お詫びに2~3日トップはそのままにしておきます。カウンタ止まるけど(苦笑)
(トップのカウンタはメニューページのアクセスでカウントしておるのです。別個にインデックスのアクセスも取っておりますが)

 えっと、20日の日記両方に反応していただいて何となく嬉しかったり。

 さて、満足して寝よう……泥のように……


2001年1月20日(土)の○と×

あまりの寒さにマフラーを探して押入をまさぐる。
昔彼女からクリスマスプレゼントにもらったバーバリーが出てきた。
あったけえ(泣)
心はむしろ急速に冷え込んだような気もするがな。
思えば、その手の頂き物に防寒具が占める割合って非常に大きい。手袋とか帽子とか(これは自分からねだることもあるのでやや意味合いが違なるけど)、冬ジャケとか。
ちなみに手編み系で攻められたことが(確か)ないのは、そーゆーのに有り難みを感じられない私としてはラッキーだったと思うべきなのか。それとも当時から無意識に半端なモノ出したら突っ込まれそうオーラを出してしまっていたのだろうか。食い物系は割とお手製にありついていたと思うので、後者はないと信じたいのだが……うーむ。

前々から気になっていたのだが>WindowsCE の画面キャプチャ

『なお、画面キャプチャには伊藤栄一郎氏の「CaptCE」を使用。』

このフレーズ、WindowsCEのハードコピーを掲載している記事(メディア問わず)には大抵付記されている。
いや、ソフトの普及度とか代替選択肢とかデファクトとかそういう話ではなく、この文言が必ず付いて回るのがとても気になってしまって。
ソフトの使用許諾に条件付けられているのだろうか?
「代価不要だが不特定多数に閲覧されるリソースを作成する場合はその旨付記せよ」
とか? もにょもにょ……
まあ私自身は PocketPC も WindowsCE 機も使ってないので、その辺の事情がよくわからないんですけどね。


2001年1月19日(金)の○と×

久しぶりに大学へ(仕事)。
学生交流会館なる施設が、ほぼ完成していた。某キッス第9章でモデルにした芝生の空き地に、巨大なコンクリの固まりが。
ピロティから神戸のまちなみが望める。
奥まで歩くと、まさに100万ドルの夜景を独り占め状態。
また行こーっと。(独りで?)
押入の中にカミュのVSOPとバランタイン12年を発見。
つーことは、引っ越し前のシロモノだな……(苦笑)
まあけど平気だろ、たぶん。あとは肴をどうするかだ。

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そのまま三宮に出て、マザーボードとCPUとメモリの実勢価格調査。
結果、現在供給されているマザーのほとんどがうちのケース(の背面盤)に合致しないという重要な事実が判明。
空間としてはミドルタワーだから余裕アリまくりなのにぃ(T_T)
うーん、あきらめてK6-2あたりへの還装に挑戦か?
あるいはコレ行っちゃえ! との啓示かも知れぬが。


2001年1月18日(木)の○と×

後輩から結婚式へのお誘いが。
みんな調子よく片づいて幸せになってスバラシイですね。
これで一つ下の学年はほぼ全員所帯持ち。いやあ先輩としても嬉しいなあ。
……あそんでね(T_T)

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突然気持ち悪いぐらいの暖かさ。
思えば震災前日も、それまでの寒さが嘘のような生ぬるい陽気でした。
ほんの少しとはいえ雨も降りましたし、空の様子も特別おかしいということはないので大丈夫だと思いますが、とりあえず今晩は水汲み置き&枕元に靴置いて寝ます。


2001年1月16日(火)の○と×

うちへのこっそリンク、数件発見。
週末に捕獲予定。

アンカーは16日ですが、実際は17日に書いていますので。
最近、よく揺れます。
地震からは、もう6年が経ちました。自分自身はちょうど大阪に引っ越したところでしたので、実はそれほどダメージを受けていなかったりします。ただ、大阪での暮らしには微妙に慣れなかったせいもあり、当時はほとんど毎日のように「神戸に戻りたい」などとつぶやいてたことを覚えています。
某嬢とは違ってその気になれば戻れたんですが、当時は借金を返すのに手一杯で引っ越しどころじゃありませんでした。近くて遠い神戸に、それでも月に一度遊びに行くのが数少ない楽しみのひとつでした。
直後「帰るところが無くなった」と思いました。この思考、神戸出身でもない自分としてはちょっと異常じゃないかと後で思いましたが、強烈な喪失感はしばらく消えることがありませんでした。
震災ボランティアに参加しようと思ったこともありました。職場自体が復興に深く関わる立場にあり、それを理由に自分を押しとどめましたが、春に入社してきた新人が「先週までボランティアをしていた」という話を聞き、心中穏やかでなかったのも確かです。
三宮やハーバーランドの盛況振りに「復興は成った」と思われるかも知れません。しかし、いわゆる地元の商店街で「構えだけが整った薄ら寒い街」になってしまったところも多いように思います。
安全な居住の確保が最優先されることはわかりますし、震災以前からこのような傾向は確かにありました。学生時代、六甲周辺の飲食店ガイド作成に向けた取材をしていた頃にも、「僕の好きな神戸はどんどん無くなっていくのかも知れない」という不安は払拭できずにいました。
うわべだけ、空元気だけの復興は街が疲弊する──これは本音だったりします。
そうならないようにするのが自分の仕事であることを思い出しつつ、大好きな神戸に戻ってきた今こそ、その関わり方を考え直す時期かも知れないと思ったりしています。