「 震災 」一覧

被災者の、被災者による、被災者のための追悼ドラマ。

阪神・淡路大震災15年 特集ドラマ「その街のこども」

 録画してたのをようやく見た。タイトルは見終わった直後の、被災者でない「元」そして「現」在住者の感想。
 視聴率が伸びなかった理由もタイトルのままだろう。

 そして第二印象。
 これは震災のサイドストーリーなのだな、と。

 エンドロール時点で主役の座から降りていたもの同士の後日譚。
 悪いことじゃない。それでこそ伝えられるメッセージもある。

 サトエリの2つ歳上になる教え子たちを思い出す。
 高校を卒業する1995年の3月、摂津本山の駅前に集まる約束は果たせなかった。


阪神大震災復興市民まちづくり。

 コンサルタントは、報告書をつくってナンボという商売ではない。

 本来の目的である「クライアントの問題解決」に向けたひとつの手段でしかないソレは、断じて「業務の本質」などではなく、意志決定にたどり着く道のりで流した汗の絞りかすでしかない。だから納品時のあいさつで「いい報告書をありがとうございました」なんてリップサービスを受けても、県の担当者に「他の市町にも参考にするよう言ってるんですよ」と持ち上げられても、単なる紙の束である報告書にはまるで愛着がわかなかった。

 それが少し変わったのは、やはり自らのフィールドから一歩踏み出してからだと思う。かつての「課題解決型」から「目標達成型」への変化とも言おうか。ひとつひとつの技術的課題をクリアにする作業へ没頭していては物事が進まないという状況を目の当たりにしたからだろう。いまやそうした「作業としての具体化をともなわない、理念あるいは学習偏重型の組織」を支援(中長期的には改革)していくことが日々のミッションであり、かつて慣れ親しんだ「ロジカルシンキングが通用する世界」を懐かしく思うようになっている。

 もちろん、かつての仕事でも「理性的な話が通じない特定多数のステークホルダ」と合意を形成しなければいけない状況は珍しくなかった。でもそこには少なくとも「自分のこと」という切実感と緊張感があり、だからこそ筋道も探すことができた。だから、たとえどれほど無茶を言う相手であっても、全力でそれに応えていこうと思えたのだろう。

 そんな時期の自分の活動記録が、ほんの一部だが残されていると知ったのは最近になってからだ。発刊は1996年11月、市の図書館などに蔵書があるのは確認できたが、なんとなく手元に置いておきたくなってAmazonのマーケットプレイスで入手した。編集はコー・プランの小林郁雄氏。復興事務局は自分が携わった地区にもスタッフ(大学時代のゼミの助手で上司の同級生でもあった人ほか数名)を送り込んできていたが、成果品を見ると本当に精力的な活動を行っていたのだと感服させられる。

 業務の成果品としての報告書とはやや趣が違うけれど、自分が関わった部分以外からも当時の熱が伝わってくる。実はアツいばかりでなく、自らも抱いていた「空元気の復興が招く疲弊感、拙速な計画決定が生み出す軋み」への危機感も蠢いているのだが、そのカオスもまた(不謹慎ながら)懐かしい。

 いまこれを「もう一度やれ」と言われたら、逃げ出さないまでも一歩下がるだけの足場は確保しようとするだろう。もちろんそれ以前に二度と起きてほしくないわけだけど、「物」を残しておきたいという感情とともに、つくづく歳食ったと思い知らされることよ。


13年も経てば。

20080117

幼稚園児が大学生に。
当時の中学生だって新しい家庭を持っているかもしれない。
新卒社員も転職が難しくなる。
そんな十二支ひとまわり。

寒さで思い切り出遅れる。
いつもの出勤より少しだけ早めに家を出て、東公園へ。

ボランティアとマスコミがほとんど。
竹灯籠をぐるりと見て回る。

一昨日、NHKのおはよう関西で尼崎市東園田町の町会が紹介されていた。個人情報保護の観点からなかなか整備が進まない災害時の要援護者リスト、その成功事例として町会長氏と地元住民の何人かが画面に映った。

一瞬、懐かしい顔が。まだ元気にしてはったんやと安堵する一方で、映らなかった人たちの「その後」に思いを馳せる。

続きを読む


今年はタイムシフト。

 自宅で0546を迎え、メールしてテレビ見て三宮。やっぱりずいぶん空いてた。
 最近、目の前にいる神戸の街は「思い出のあの人にとてもよく似た子供」なのかもしれない、みたいなことを思うことがある。
 あの日、間近にいながらその最期に立ち会えなかった、あの人の面影を別の人に重ね合わせているだけなのでは、と。
 否応ない「生活の再建」を迫られなかった半当事者の回顧主義から抜け出して、そろそろ前を向かんとアカンのかもね。