タグ別アーカイブ: 震災

2000年1月17日(月)の○と×

今日の数字入力

 プロポーショナル文化以前の風習を引きずっていると言われても仕方ないのだが、仕事に使う文書では 「1桁の数字は全角・2桁以上は半角・3桁ごとにカンマで区切りを入れる」 のがデフォルトになっている。 これが結構面倒。
 IME(ATOK)の設定では、半角全角変換の設定は「数字」という大きな区分でしか出来ないために、1桁の数字を単体で入力する場合はわざわざ全角変換してやる必要がある (これが例えば「第2回」とかのセットになると学習の効果が出てくる)。
 このため、現在では数字は全角変換に固定&テンキー入力は半角固定、という組み合わせでやっているのだが鬱陶しいことこの上ない。
 さらに面倒なのが桁区切りの入力。106キーボードにはテンキーにカンマが無いので、日本語の文章に4桁以上の数字を混在させるのは正直かなりの苦痛を伴う作業となっている。
 こういうのもIME側で対処できてしかるべきだと思うのは私だけ?
 (あと、IMEを使う上では98キーボードのように「左右方向キーが並んでいる」方が使いやすいと思うのだが……これって意外に賛同者が少なかったりする)

今日の○

 そこで思い出したのが、以前人に頼んでゲットしてもらった「98キーボードをPS/2ポートに繋ぐアダプタ」。そうそう、あれを試すときがやってきたのだー。

今日のX

 そこで思い出したのだが「しばらく使わないからインプレしといて」とそいつに渡したきりになっているのであった。 ぷぅ。
 USB の98キーボードって確かあったよな。 桜木さんが使ってたっけ。

今日で

 もう5年も経つ……のか。
 全然実感なし。

2001年1月16日(火)の○と×

うちへのこっそリンク、数件発見。
週末に捕獲予定。

アンカーは16日ですが、実際は17日に書いていますので。
最近、よく揺れます。
地震からは、もう6年が経ちました。自分自身はちょうど大阪に引っ越したところでしたので、実はそれほどダメージを受けていなかったりします。ただ、大阪での暮らしには微妙に慣れなかったせいもあり、当時はほとんど毎日のように「神戸に戻りたい」などとつぶやいてたことを覚えています。
某嬢とは違ってその気になれば戻れたんですが、当時は借金を返すのに手一杯で引っ越しどころじゃありませんでした。近くて遠い神戸に、それでも月に一度遊びに行くのが数少ない楽しみのひとつでした。
直後「帰るところが無くなった」と思いました。この思考、神戸出身でもない自分としてはちょっと異常じゃないかと後で思いましたが、強烈な喪失感はしばらく消えることがありませんでした。
震災ボランティアに参加しようと思ったこともありました。職場自体が復興に深く関わる立場にあり、それを理由に自分を押しとどめましたが、春に入社してきた新人が「先週までボランティアをしていた」という話を聞き、心中穏やかでなかったのも確かです。
三宮やハーバーランドの盛況振りに「復興は成った」と思われるかも知れません。しかし、いわゆる地元の商店街で「構えだけが整った薄ら寒い街」になってしまったところも多いように思います。
安全な居住の確保が最優先されることはわかりますし、震災以前からこのような傾向は確かにありました。学生時代、六甲周辺の飲食店ガイド作成に向けた取材をしていた頃にも、「僕の好きな神戸はどんどん無くなっていくのかも知れない」という不安は払拭できずにいました。
うわべだけ、空元気だけの復興は街が疲弊する──これは本音だったりします。
そうならないようにするのが自分の仕事であることを思い出しつつ、大好きな神戸に戻ってきた今こそ、その関わり方を考え直す時期かも知れないと思ったりしています。

2003年1月17日は金曜日。

Fony Clie PEG-NR70Vic

 激しく笑うた。ネタはpocketgamesより。

ニュースEyeランド拡大版

 だからこっちではサンテレ入らんのやって。
 ふと空を見ると、星が透ける程に薄く広がった雲をバックにした怪しい月傘。そして昨日までの冷え込みが嘘のような暖かさ。
 そういえば震災の前の日っていきなり暖かかくなって気持ち悪かったっけ。疲れ果ててて感度悪くなってたけど、予兆現象は山ほど出てたんだよなあ。

5時46分

 までに仕事終わるかな……。

ショッピングバス新年度も継続へ

 レインボー循環は9時台~20時台という運行ダイヤをせめて一時間ずつ拡張したらそれなりに利用客数は確保できると思うがなあ。コトデン本体との関係でも駅間広いところを縫って走ってるからそれほどバッティングしないだろうし。

2004年1月17日(土)の日記

なにをどう間違えたか

 浜崎あゆみのAYU Ready?という番組を見たら、バービーのエンリケと野村のよっちゃんが浜崎のバックバンドやってた。
 正直、かなりショック。

姉と甥が

 従妹夫婦宅@吹田を襲撃中。年末はジッカ方面で入れ替わりだったこともあり三宮にて晩飯なぞ。
 でも結構混んでそう。まだヘリコ飛んでるしー。

コナミ・タカラ、新商品を合同発表

 スティック型ドラムマシンのWE LOVE DRUMは楽しそう。
 最近この手の打楽器オモチャが減ってる気がするの。

SONY VAIO HX

 VAIO HSの後継機種レビュー。
 ひょっとしてとうとう液晶ペンタブ廃止ですか?(;´Д`)
 Tablet PCもしくはCintiqを買えと? 泣くぞ。

こうして頑張って5時まで起きているわけだが

 さて、東遊園地へはチャリで行くか阪神電車にするか。
 寒いけど地下を往くのはなんとなく厭な感じ。

バッタもんとパチもん

 全部カタカナにしたらポケモンと間違えそうになったので後半ひらがな。
 バッタモン=パチモンとしているのが意外と多く、相違点を記したものもその見地はまちまちだったりして疑問は解消しない。
 関西在住15年を経過した非関西人のワタクシ、使い分けの現状はこんな感じで。

『パチもん』
 『粗悪コピー』。ネタをパチった商品。模倣は高額商品に限らない。本家とそこそこいい勝負の値札。騙されて、あるいはオリジナルを知らずに買う。
『バッタもん』
 『出所の怪しげな商品』。大抵は皮革製品。値札は本家より大幅に安い。「類似の廉価品」を含むが低品質とは限らない。納得して買う。

 「真似してなくても粗悪であればパチもん」とか「放出・流出品=バッタもん」という論も聞くが、ニュアンス的には上のような感じで使っている。だからバッタもんという言葉の利用頻度はパチもんよりかなり低い。
 でも「同義ではない」という認識までで止まってるっぽいな。

2005年1月17日(月)の日記

今日の懐メロ95 OSR2

My Sharona
THE KNACK
“Get The Knack” [1979]

 リバイバルヒットしたのはいつごろだっけ。「洋楽ブーム」の幕開けとしてBlondieのCall meと並び称される超絶ヒット。
 しかし困ったことにオイラがマイシャローナで思い出すのは江口寿史Go Ahead!だったりします。先ちゃんの漫画を読むようになったのは、山下“現人神”達郎さまの3rdを本歌にしたこの作品(のタイトル)を見て以降。その後のひのまる劇場ではやっぱりMOONGLOWを持ち出したり、ひばりくんEIZINさん永井画伯の画風を取り込んだりと当時リア厨だったオイラのツボをきっちり突いてきておりました。
 つーわけでナック自体はZoom買うまではマジメに聴くこともなかったという次第。

せめて今日ぐらいは

 「ヘリコプター取材自粛」ぐらいの気を利かせてもバチはあたらんだろうに。

あの場所へ、もう一度。

 この地区へ足を踏み入れるのは10年ぶりだ。
 「その前」と「直後」を知っているからこそ、他の場所とはいえ「復興にかかるやりきれないあれこれ」に携わったからこそ、「その後」に向き合うのはとても怖い。もし新しい職場がこれほど近くなければ、あるいはまったく関わりのない仕事であったなら、ずっと見て見ぬふりをして過ごしていくのだろう。

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今年はタイムシフト。

 自宅で0546を迎え、メールしてテレビ見て三宮。やっぱりずいぶん空いてた。
 最近、目の前にいる神戸の街は「思い出のあの人にとてもよく似た子供」なのかもしれない、みたいなことを思うことがある。
 あの日、間近にいながらその最期に立ち会えなかった、あの人の面影を別の人に重ね合わせているだけなのでは、と。
 否応ない「生活の再建」を迫られなかった半当事者の回顧主義から抜け出して、そろそろ前を向かんとアカンのかもね。 

13年も経てば。

20080117 幼稚園児が大学生に。
 当時の中学生だって新しい家庭を持っているかもしれない。
 新卒社員も転職が難しくなる。
 そんな十二支ひとまわり。

 寒さで思い切り出遅れる。
 いつもの出勤より少しだけ早めに家を出て、東公園へ。

 ボランティアとマスコミがほとんど。
 竹灯籠をぐるりと見て回る。

 一昨日、NHKのおはよう関西で尼崎市東園田町の町会が紹介されていた。個人情報保護の観点からなかなか整備が進まない災害時の要援護者リスト、その成功事例として町会長氏と地元住民の何人かが画面に映った。

 一瞬、懐かしい顔が。まだ元気にしてはったんやと安堵する一方で、映らなかった人たちの「その後」に思いを馳せる。

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阪神大震災復興市民まちづくり。

 コンサルタントは、報告書をつくってナンボという商売ではない。

 本来の目的である「クライアントの問題解決」に向けたひとつの手段でしかないソレは、断じて「業務の本質」などではなく、意志決定にたどり着く道のりで流した汗の絞りかすでしかない。だから納品時のあいさつで「いい報告書をありがとうございました」なんてリップサービスを受けても、県の担当者に「他の市町にも参考にするよう言ってるんですよ」と持ち上げられても、単なる紙の束である報告書にはまるで愛着がわかなかった。

 それが少し変わったのは、やはり自らのフィールドから一歩踏み出してからだと思う。かつての「課題解決型」から「目標達成型」への変化とも言おうか。ひとつひとつの技術的課題をクリアにする作業へ没頭していては物事が進まないという状況を目の当たりにしたからだろう。いまやそうした「作業としての具体化をともなわない、理念あるいは学習偏重型の組織」を支援(中長期的には改革)していくことが日々のミッションであり、かつて慣れ親しんだ「ロジカルシンキングが通用する世界」を懐かしく思うようになっている。

 もちろん、かつての仕事でも「理性的な話が通じない特定多数のステークホルダ」と合意を形成しなければいけない状況は珍しくなかった。でもそこには少なくとも「自分のこと」という切実感と緊張感があり、だからこそ筋道も探すことができた。だから、たとえどれほど無茶を言う相手であっても、全力でそれに応えていこうと思えたのだろう。

 そんな時期の自分の活動記録が、ほんの一部だが残されていると知ったのは最近になってからだ。発刊は1996年11月、市の図書館などに蔵書があるのは確認できたが、なんとなく手元に置いておきたくなってAmazonのマーケットプレイスで入手した。編集はコー・プランの小林郁雄氏。復興事務局は自分が携わった地区にもスタッフ(大学時代のゼミの助手で上司の同級生でもあった人ほか数名)を送り込んできていたが、成果品を見ると本当に精力的な活動を行っていたのだと感服させられる。

 業務の成果品としての報告書とはやや趣が違うけれど、自分が関わった部分以外からも当時の熱が伝わってくる。実はアツいばかりでなく、自らも抱いていた「空元気の復興が招く疲弊感、拙速な計画決定が生み出す軋み」への危機感も蠢いているのだが、そのカオスもまた(不謹慎ながら)懐かしい。

 いまこれを「もう一度やれ」と言われたら、逃げ出さないまでも一歩下がるだけの足場は確保しようとするだろう。もちろんそれ以前に二度と起きてほしくないわけだけど、「物」を残しておきたいという感情とともに、つくづく歳食ったと思い知らされることよ。