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ドキュメント’96 (「To Heart」より)

 初出:”ToHeart SideStory Chronicle” (2004/8/13)


 蝉の声が締め切った窓の向こう側から漏れて聞こえる。外は夕べから持ち越した熱気が渦巻いているのだろう。
 ストラップに付けた金属製のマスコットが音を立てないように、ゆっくりと枕元の携帯電話を引き寄せる。午前六時。新聞配達のアルバイトを始める前から、私は蝉が鳴きはじめるこの時間に目を覚ますことが多かった。

 こんな季節なのに、付けっぱなしのエアコンのせいで部屋の中は肌寒いぐらいに冷やされている。美容や健康よりも電気代を気にしてしまうのは、年頃の娘としてどうなんだろうか。
 ブルーと白のストライプに、カーテンの影が交差している。焦点の合わない眼でたくさんの四角を順番に追う。大きな四角。小さな四角。細長い四角といびつな四角。次はあそこ。こんどは右側のやつ。子供のころ夢中になったケンケンの要領で、私は布団の上を自在に跳ね回る。ちゃんと付いてこれてるかな。次のはちょっと遠いから転ばないように気を付けないと。

 せーの。

「起きたの」
 しゃがれた声が背中を打つ。
「まだ早いよ」
 そのままの視線で応える。声の主は「ああ」とも「うう」ともつかない唸り声を残し、布団に潜っていった。
 ほんの少しの会話が、私と部屋の空気を目覚めさせてしまった。視界いっぱいに広がっていた格子は、もうシーツの柄にしか見えない。
 さっきの音がまだ耳の底で響いている。喉を鳴らさない、ささやくような彼のつぶやき。低い声が普段は意外なほど通るのに、ふたりでいるときのそれは世界で私だけのものだ。

 出会ってから三ヶ月、私はずっと彼を観察していた。時間の許す限り、彼の一挙手一投足を追いかけていた。それは新しい発見の連続だったけれど、当初は観察より鑑賞という言葉がふさわしいものだったと思う。
 攻略するための研究や考察をしていたわけじゃなかったし、なにより彼の世界の中にいる私の姿がまったく思い描けなかった。崩れるクリスマスケーキの山を支えてくれたあの時から彼はずっと王子様だったし、こうして一緒に迎える朝に現実感が伴わないのも相変わらずのこと。

 勝手に憧れていたあのころから、もっと好きになったのは本当だ。目を合わせるたび、声を聞くたび、手を触れあうたびごとに惹かれていくのが自分でもわかった。でも「格好良くないときもある」と言ったのは照れ隠しの嘘だった。
 藤田浩之はヒーローだ。たとえ巨大な悪から地球を守らなくても、変身して空を飛ばなくても、彼は彼に関わるすべての人を救う英雄だ。
 長く一緒にいるほど思い知る。彼は何も意識することなく周りの人に手をさしのべる。それは時に明白な態度で拒絶されることもあるのだけど、確固たる無神経の鎧は何をも通さない。後輩。先輩。同級生。ロボット。彼の愛は時と場所と対象を選ばない。

 ふと、背中からブスリと刺してしまいたい衝動に駆られる。その断末魔の瞬間、きっと彼は「しょうがねえなあ」とつぶやきながら哀れな私に微笑むだろう。彼の最後の笑顔を独り占めできるのなら、それはとても魅力的なことだと半ば本気で思う。
 あの幼なじみの彼女なら彼のすべてを許しただろうか。
 あの美しい先輩なら彼のすべてを欲しがらなかっただろうか。

「釣り合ってないよね」
 ぼそり、と零す。
 どんな負担があっても、ダメな自分には慣れたくない。ダメな部分もまとめて受け止めてくれる人を全面的に頼ってしまいたくない。一緒に歩いてくれる人と歩幅を合わせるために、ちょっと背伸びすることになってもこの人とは対等でいたかった。
 でも、やっぱり無理なのかもしれない。
 容姿とか環境とかそんな理由じゃなく、この人の並みはずれた遠心力に私はきっと耐えられない。どこ吹く風と笑って眺めるような自信も、一緒に飛び回るバイタリティも、飛んでいってしまわないように紐を結わえて捕まえておく魅力もない。

 何かひとつ、と思った。その唯一のセールスポイントを彼は的確に評価してくれた。でも返ってきた言葉は「がんばってる姿を見ると俺もがんばる気になれる」。
 冗談じゃない。これ以上この人にがんばられたら、私はあっという間に置いてけぼりになってしまうじゃないか。
「どうしようね、私」
 無邪気な寝顔が、作らない表情がどれほど私を惹きつけているか彼は知らない。このままずっと眠っていてくれたなら、私は喜んで彼の世話に一生を費やすだろう。彼の寝顔を見ながらただ朽ちていくのに何の躊躇が必要か。

「ドキュメント’96」

 今日は水曜日。お中元セールに一段落がついて久しぶりの定休日だ。彼の方は集中講義も終わり、名実ともに夏休みに入っていた。
 今は良太がひよこの面倒を見てくれている。ただ、母の入院は相変わらず続いていた。一年程度で退院できるはずだったことを思うと予想外もいいところだが、急に悪化する要素は少ないというのが不幸中の幸いだろうか。
 そうなればまず考えなければいけないのは入院費用と弟たちの学費だ。退院できたとしても長年の療養生活から復帰するのは容易ではなかろうし、在宅での介護に向けて稼げるだけ稼いでおきたい。

 だから高校を卒業し、就職先を決めるとき一番優先したのは給与条件だった。決まった休日とか実際の残業時間、福利厚生といった条件は最初から無視。器用でも賢いわけでもないから技能職や事務はダメ。試験のある公務員もパス。
 正直、百貨店の販売員だけでは追いつかない。だから水商売のアルバイトをするようになったのは仕方ないと思っている。ただ、最後まで強硬に反対した母の言い分を「そんなこと言ってる状態じゃないでしょ」という一言で切り捨てた時は、自分でもいいようがないほど暗い気分になった。
 実際に身体を動かしている間は色々考えなくてもいいから気が楽だ。それが見当違いの方向だとしても、とにかく自分はがんばっているのだと言い訳ができる。それを聞く者が自分以外にいないのはむしろ救いだ。

「なあ」
 もぞり、と布団の山が動く。と同時に冷え切った手が太腿の上を滑った。
「冷たいよ」
「あったけえ」
 ならエアコンを止めればいいのに、と思ったが口には出さないでおく。どうこう言ったところで彼がこの悪癖を止めるはずもないことぐらい、私にだってわかる。
「病院行くんだろ」
「うん、ひと月開いちゃったし」
 この部屋に泊まるのは休みの前だけだ。普段は日が変わる時間でも必ず家に帰るようにしている。まだ中学生の良太に何もかもを任せるわけにはいかないし、そもそも藤田浩之の自宅は丘の上の新興住宅地にあって、タクシーもまばらな時間に歩いて上る余裕など今の私にはない。
 弟たちは大抵日曜日に面会しているけれど、私が動けるのは定休日の水曜だけ。良太が病院から持って帰ってきた洗濯物を届けるついでに母のとりとめのない話を聞いて帰るだけのことだが、久しぶりのことでやや億劫に感じているのも確かだ。
 母が入院している総合病院と藤田家が比較的近いという理由でもなければ、こうして夜を過ごそうという気分にすらなっていないだろう。
「便利に使っちゃってごめんね」
「いいって。便利に使ってくれよ」
 いつも彼はそういって笑うけれど、実際に彼が自分の都合を曲げるような事態には今のところ遭遇していない。自分でできる範囲のことで彼の手を煩わそうとは思わなかったし、理系の学部に進学してアルバイトもやっている彼とは思うほどの接点が無い。

 前に一度、聞いたことがある。ひとり暮らしとはいえ自宅に住み、両親とも一流企業で働いている彼ならアルバイトなどしなくても勉学に集中できるのではないかと。時間の融通が利かないこちらに多少なりとも合わせて欲しいという、ささやかなわがままを隠して。
 馬鹿なことを聞かなければよかった、と悔やんだ。彼が巷の学生とは比べものにならないほど真面目に勉強し、不自由もないのに一生懸命稼いでいる理由は、なんと高校時代にであったロボットのためだというのだ。
「売り出されたらすぐに買おうと思ってるし、そっち方面は就職も狭き門だからさ」
 そうなんだ、としか答えられなかった。あまりの感覚の違いに呆れると同時に、これでも世間の水準からすれば“大したもの”なのだろうと思うと情けないのを通り越して笑えもした。
 いつか彼はがんばっている私が眩しいと言った。俺もがんばらなくっちゃと川面を見てつぶやいた。でもそれは彼が自分の目指す方向へ進むだけのことであって、なにも“私と一緒にがんばってくれる”わけではないのだ。
 電化製品に嫉妬しても仕方ないから、口にはしない。男がいくつになってもおもちゃに夢中なのは世間の常だから、夢を語られてもどうということはない。ただ、私という存在が彼の人生にもたらす違和感の大きさを思い知るだけのこと。

 外は息苦しいほどの熱気に満たされていた。
「なんだよこの暑さは……」
「今日は中にいた方がよかったね」
 彼が病院に付いてくるのは初めてじゃない。良太に駄々をこねられたり、病室を移るときに手伝ってもらったりと何だかんだで四、五回は顔を出している。母も最初は彼の愛想の無さに要らぬ心配をしていたが、今では“お付き合いしている相手”として認識しているはずだ。
「他人がいた方が気楽なこともあるだろ」
 ときどき、彼のこういう気づかいにギクリとさせられる。こういうことには普通なかなか思い至らないだろうと思うし、それをストレートに伝えてくるのは彼の凄いところだと感心もする。でもそれは彼にとってごく自然な態度であり、自分がそうだから他人もそうだろうという思いこみ以上のものじゃない。そうして欲しいと思ったときに動いてくれるとは限らないし、実際今日だって私はひと月分の愚痴を一人で受け止める覚悟ができていた。

 藤田浩之依存症。絶対に意識はしていないだろうけど、彼は巧みに私のやる気をくじく。それは往々にして無駄に張りつめた空元気だったりするから感心させられるのだが、時には前向きなやる気すら抜き取っていくそのマイペースさに、私は振り回されっぱなしだ。
「暑いね」
「ああ」
 表情を作れなくなった私は、眩しい太陽を見上げた。別れ話でも切り出しそうな顔になってるんじゃないだろうか。

 しばらく歩くと、公園に接した交差点に出る。まっすぐに進んだ坂の先には、私たちが通った学校がある。
「よくこんな坂を毎日上ったもんだ」
「藤田君はまだマシだよ」
「あー、理緒ちゃんとこからだとな」
 彼の家は丘陵の中程に位置しているから、ここから学校に上るぐらいならそれほど苦にならないだろう。駅を挟んで川の向こう、旧市街にある私の家からこの高校までの通学は、夏場だとかなりこたえた。

「私ね」
「ん」
 そんなことを思い出したのはこの暑さのせいだろうか。背中に伝う汗の感覚は、当時とまるで変わらない。
「あの学校の制服嫌いだったんだよ」
「セーラーか」
「似合ってなかったでしょ」
「どうだろ」
「否定しなかったら頷いてるのと一緒だよ」
 自分にセーラー服が似合わないのは中学の三年間で十分に思い知らされていたから、高校は何としてでもブレザーのところへ行きたかった。
「でも徒歩圏だと寺女しか無いでしょ、ブレザー」
「まあなあ」
 お嬢様学校で知られる西音寺女学院の制服も、特別に好きなわけでもなかったのだ。どのみちその選択肢はあり得ないものだったのだけれど、着る者を激しく選ぶセクハラ寸前のセーラー服に比べればどれだけマシなことだろうと思っただけ。

 中学のころ、坂を上り下りする女生徒たちを見ながらずっと考えていた。かわいそうに。百人にひとりも似合いそうにない派手な制服で三年間衆目に晒されるなんて、と。
「それにね、笑っちゃうんだけど最初寸法が合ってなくて」
「あれか。成長期だから大きめの買っておけってやつ」
「そうそう、中学生じゃあるまいし。わたしガリガリだからもう服の中で泳げちゃうぐらいでね」
 選べるからこその不満。それは夢の裏返しだ。好きでもない制服をただ着られることに感謝する自分など当時の私には思い描けなかった。

 母がまだ入退院を繰り返していた入学式直前のやりとり。まだ笑い飛ばせるほど愉快な想い出には変わっていないけれど、あのころの自分の気持ちも今ようやく冷静に分析できるようになった。

「可愛いじゃない」
「嘘ばっかり」
 鏡の向こう側に見えるのは、サイズ違いの貧弱なボディハンガーにぶら下げられた桜色の制服。裄も丈も全然合ってない。胸当ての高さがすごく気になる。上着の裾が落ち着かない。
「嘘じゃないわよ、よく映ってる」
「ねーちゃん何そのカッコ」
「お姉ちゃんの新しい学校の服よ。可愛いでしょ」
 ほら、良太だって困ってる。子供は正直だ。

「あーもう、滅入っちゃうわ」
「理緒」
 服を脱ぐ手を止めて、鏡越しに母を見る。逆光で表情は見えないけれど、次に何を言おうとしているのかはしっかりと伝わった。
「ごめん」
 遮るためだけの無愛想な謝罪。その意図は間違いなく相手にも伝わっているはずで、だからこその卑怯な最終兵器だ。
「アルバイトいってきます」
 そんな嫌味な捨てゼリフも、結局は自分に降りかかる。そんなことはもうとっくに理解できているのに、口に出さずにいられない。

 どうして私は普通のことができないんだろう。朝寝坊して、ローファーの靴ずれに悪態を付きながらヤックで時間をつぶし、据え膳上げ膳の後には長電話。漏れ聞こえる同級生の生態がまるで違う世界の生き物のように思えた。
 ダメならダメでやりようもあったと思う。遠いといっても親戚が皆無なわけではないし、生活保護の申請も何度となく勧められていた。母がそれらに頼るのを頑なに拒む理由がさっぱり理解できずにいた。
 そして入学式を終えてしばらく経ったころ、いよいよ母の病状が芳しくないと担当医から聞かされた瞬間に私は切れた。病院から民生委員をやっていた近所のおばさんの家に直行し、それまでは知ろうともしなかった公共の補助について調べまくった。バイトの合間を見て市役所の窓口に通い、保険も含めてすべての手はずが整うまで、一度も病院に顔を出さなかった。
「ぜんぶ済ませたから。他のうちのことは私がやる」
 そう言い放てば、してやったという快感と、多少は楽になるという安堵が同時に手にはいるはずだった。

「お疲れさんだったね」
 まるで他人事のような母の言葉に反応する気もなかった。そのまま肩で風を切って病室を出て行こうとしたそのとき、母がぽつりと漏らしさえしなければ。
「もう、いいのかな」

 一瞬にして頭に血が上った。
 開けっ放しになっているドアや、廊下で待っている良太の存在も忘れて私は金切り声を上げる。
「もういいってなによ。母さんなにもしなかったじゃないの。そりゃ父さんいなくなってから大変だったろうけど、他にいくらでも上手くやる方法あったじゃない。それぜんぶ放ったらかして無茶な働き方して、あげくに倒れちゃって」
 足下から血の気が引いていく。膝がガタガタ震える。
「生活苦しいのなんて良太だってわかってるのに、母さんがそれ認めないからおかしなことになるんじゃない。民生の人にも聞いたわよ。ちゃんと双親いるのに保護もらって楽してる家だってたくさんあるんだって」
 何年ものあいだ発酵させたような刺激臭が喉の奥に広がった瞬間、前触れもなく涙が吹き出た。
「母さんが意地になるのは勝手だけど、それに私たちまで巻き込まないでよ!」

 絶対に言わないでおこうと思っていたのに、ぜんぶ言ってしまった。唇が引きつって口を閉じることができない。鼻に涙が流れ込んで、息を吸うたびにしゃくり上げる。握りしめた手の、爪の食い込む痛みがギリギリのところで意識を繋いでいる。

 ──バカか、私は。
 こんな状況で普通になんかなれるわけないじゃないか。わかっているのに無いものねだりを繰り返していたのは誰だ。仕方ない仕方ないとあきらめたふりをして、最後のところで夢に逃げていただけ。
 痺れた手に、かさついた指が触れる。瞬間に崩れ落ちた私はそのまま思い切りベッドの上の母に抱きついた。
 ちりめん織りのパジャマが頬にこすれて痛い。私よりもまだ細い母の身体は、とても暖かかった。

「母さんのせいで、ぜんぶ背負わせちゃったね」
 言いたいことはまだあるはずなのに、声が出なかった。
「母さんね、怖かったのよ。今の自分の生活に向き合うのが」
 こんなに大泣きしたのは、そして母に抱きついたのは何年ぶりだろう。何もかも吹き飛んだ頭のなかで、ぼんやりと数える。
「たぶん理緒も今回のでわかったと思うけど、人の助けを受けるってのはね……自分がいかにダメなのか思い知らされるのよ」
 五年ぶり。五年の間、私は本気で泣いたことも、母に助けを求めたこともなかった。それはひよこが生まれて、まるでその代わりのように父が亡き人となってからの期間と符合する。
「母さんはうちがダメな家庭だとは思いたくなかったからね。父さんいなくなったって理緒も良太もちゃんと育ってるし、片親だからって卑屈な子にはならないでほしかった」

 母も私も、結局は同類なのかもしれない。自分が何もかも背負い込める力を持っているのだと過信して、知らず知らずのうちに深みにはまっていく。そして周りのお節介を振り切れなくなって、ようやく気付くのだ。
「父さんのこと思い出せる分、母さんの方が楽だったね。自分だけで何とかできてるって思ってたけど、理緒ばっかりしんどかったかもしれない」
 それもまた見当違いの慰めに思える。でも、私は明日からこれまでの母と同じように“何とかしよう”とするだろう。
 普通でありたい、と思い続けるために。普通でなくてもいいとあきらめてしまわないように。

「うわ、むしろ寒いか」
「昔に比べると冷房きつくなった気がする」
 汗まみれの行軍にようやく終わりを告げ、彼と私はロビーのソファーでだらしなく身体を伸ばした。

 焦点の合わない目で、ぼんやりと病院の中庭を眺める。乾いた汗の、肌をつねる痛みがゆっくりと引いていく。
 あれからまた五年が過ぎた。藤田浩之という過ぎたパートナーのおかげで、私は期待以上に普通の青春時代を送ることができたと思う。
 でもそれは、彼にとっては助走の期間に過ぎないのだろう。一見普通なようで全然普通じゃない彼は、きっとこれから自分の目標に向けて脇目もふらずに駆けていくのだ。そうなったとき、私がついていけるとは思えない。これまでだって精一杯だったのだから、無理な話だ。

 十年間の父との暮らしで、母が何を得たのか私にはわからない。でもそれは、将来にわたり私たち三人の子供を一人で育てていこうと決心させるぐらいに大きなものだったのだろう。
 だから私も、彼とともに歩いた五年間でがんばれると思う。少なくとも良太が学校を出て、働けるようになるぐらいまでのエネルギーはもらったと思う。
 だから、そろそろ藤田浩之を解放しよう。
 今が潮時だ。

「あのさ」
「な、なに? あっ」
 考え事をしている横から急に話しかけられ、慌ててふり向いた膝の上から鞄が落ちる。追いかけて腰を浮かした瞬間、欠けたリノリュームにヒールを取られて膝が崩れた。
「おっと」
 脇からでてきた腕に支えられ、すんでの所でヘッドスライディングは回避された。周りのおじいさんおばあさんが何事かとこちらに注目している。
「あっ、ありがと」
「どういたしまして。でも久しぶりだよな」
 高校時代と同じ顔で彼が笑う。
 突然、周りの空気の密度が増した。

「そうかな」
「ああ、ドジっ子ってイメージはもうどっか行っちまってたからな。むしろデキるおねーさんって感じでさ」
「それは買いかぶりすぎだよ」
「でも」
 それは覚えのある息苦しさ。夕日に包まれた川縁で告白の返事を待っていた時と同じ、祈りやあきらめと無縁の素直な期待が一瞬で満ちる。
「今は俺のお節介が要るぐらい理緒ちゃんが疲れてるってことだよな」
「あ、うん」
 軽い言葉になんだか肩すかしを食らったような気分で、彼の顔を眺める。また、振り回されているのだろうか。つくづく私も学習しない。
「あんまりがんばり過ぎんなよな。俺もフォローすっからさ」
 君がそれを言うかなあ、と反射的に口に出しかけたところでようやく後半の部分が脳に届いた。
 フォロー。
 彼が、私の、なにを。

「内定出た。式の時期考えといてくれ」
 かすれた早口で耳打ちすると、彼は勢いよく立ち上がった。
「やっぱ俺帰るわ。今日はまともにお母さんと会話営めそうにねえし」
 見上げた彼の顔は、見たことがないほど真っ赤になっていた。
 きっと私も同じ顔をしているはずだ。
「んじゃ、お母さんによろしくな。また来週」
 番組の終わりみたいな台詞を残して、藤田浩之は脱兎のごとく視界から消え去った。

「──なによそれ」
 言うだけ言って逃げてしまった。
 なんてヤツだろう。
 ひとりロビーでこんな顔してたら馬鹿かと思われる。かといって、このまま母の病室に入ったら何を言われるかわからない。
「しかもいきなり式って」
 準備とか、費用とか、そういうことはきっとどうでもいいのだろう。彼はただいつものように思ったことを思ったタイミングで実行に移すだけだ。時と場合と相手の都合を一切考慮に入れないまま、その強大な遠心力で周りを振り回す。
「でも、まあ」
 かわいいところもあるとわかったから、許す。
 夕べからずっと切り出すタイミングを探していたんだろう。そして言い出せないままここまでつきあって、ギリギリの瞬間があれだったのだ。

 徐々に笑いがこみ上げてくる。
「どこが“他人がいた方が気楽”なんですか、王子様」
 またがんばられてしまった。
 こっちも、もっとがんばらないと。
 問題は山積みだし、目が回るほど振り回されるだろうけど、きっと大丈夫だ。差し伸べられた手を、私は離さない。

 今日は母に、父とのなれそめを聞こう。
 思えば母とはそういう会話をしたことがなかった。
 一通りのろけを聞いたら、こっちの番だ。
 精一杯のいい顔で伝えよう。
 あきらめないでよかった──と。

〔おわり〕

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