2000年5月2日(火)の○と×

今日の○

 客が来たおかげで少し部屋がきれいになった。
 (客に掃除をさせたわけではない)

今日のX

 しかしゴミ回収は週明けなのであった。
 どーするよ、この山のようなゴミ(汗)

つれづれに記す

 ネットは善意でできている。
 リンクする自由。 リンクしない自由。
 リンクする自由。 リンクを外す自由。
 当然、守られてしかるべき自由であると思う。
 受け取る側からすれば 「引っ越したのでハイパーリンク先を修正しておいてください」 などというメールは、DM と全く等価の鬱陶しいだけの存在かも知れない。
 実際、内容的には全くの DM である。新しい URL の宣伝と存在証明のためのメールである。 「新しくなったから見に来てくれ」 ということなのであるから。 しかも今回は内容が新しくなったわけでも何でもないのだ。
 今回、改めてそんなことを考えさせられた。 これまでは手間だなんて感じていなかった作業が、能動的ではなく 「状況に迫られてやらなければいけないこと」 になった途端、やりきれないほど苦痛に感じたから。
 けど、多分それもじきに忘れてしまうと思う。
 根本に 「好きでやってる」 というのがあるから。
 「しんどいしんどい」 といいながら、やっぱりやってて楽しいから。
 ある意味ストレス解消のためにやっていることだから、ねえ。
 ちょっと思い出したこと。
 昔、友人で 「ネットで一山当てようと思うから手伝え」 と言ってきたヤツがいる。 「オレでできる範囲なら」 と簡単に請け負った。 そのときに思い知ったはずだった。 何かをやってのけようという人間は、他人が自分のために動いてくれて当然と思うものなのだと。 そして、最終的に成し遂げることのできる人間とは、実際に他人を動かすことができた人間なのだと。 自分自身でそう言って聞かせたはずだった。
 結局、その友人は当初思い描いたほどの人間を動かすことはできなかった。 完全に失敗とまでは行かなかったが、プロジェクトは規模を大幅に縮小せざるを得なかった。 もともとが彼にとっては遊びの一環みたいなものだったので、痛手は無いようだが。
 成功した人間の共通した特徴として、どこか子供の部分を残しているというような事がちょくちょく書かれている。 まあダイヤモンドとかその辺の雑誌とかでも想像してもらえばいい。
 ああいうのを見るたびに思うことがある。 その 「子供の部分」 に振り回された人間がどれぐらいいるのだろう、と。 振り回されて、到底付いていけなくて、結局痛い目だけ見た人間なんてそれこそ星の数ほどいるだろう。
 今の私にとって、ネットは現実世界の 「余り」 で構成されている空間だ。
 しかし、多くの人にとってもそうだろうという思いこみは、都合の悪いことをすぐに忘れる私のトリアタマが描いた幻想に過ぎない。
 そのことを思い出せただけでも、今回の経験は貴重なものである。
 もう一つ。
 自分自身が (ネット上の仮想人格限定とはいえ) 到底年齢にふさわしくない言動をしているのに、他人に年齢相応の人格を求めるのは間違っていたのかも知れない。 ネット上の人格にそのまま精神年齢が現れる人間だっていてもおかしくは無いのだ。 周囲に比較的成熟した人格を持つ若者が多いせいで誤解をしていたのだろう。
 自戒も込めて。
 ネットの善意を当てにするな。