転がらなかった石には、びっしりと苔がむしている。
どこまでが元々の自分なのかも思い出せないほど鈍重になってしまった今、それでも記憶だけは身軽にあの頃へと飛んでいく。
ただ身勝手な優しさだけをぶつけあった、あの頃へと。
「木の葉のスケッチ」 その5
21歳の春。
親子ほども歳の離れた相手とのドロドロした関係にけりを付け、疲弊しきった良識のリハビリに時間を費やしていた僕の前に、彼女は現れた。
その日僕は、教室からあふれだしそうな新入生に混ざって退屈な授業を受ける気にもなれず、ひとり生協食堂のテラスのベンチで空を眺めていた。
ただひとつ捨てられなかった女物のライターを、ポケットの中で弄びながら。
「アホか、オレは」
ジャケットも、マフラーも、バイクのグローブも捨てた。本も、手紙も、写真も。もらった物はすべて捨ててしまった。ついでにバイクも後輩に譲ってしまったのは単なる勢いだ。残っているのは、この死にかけた電子ライターだけ。
「来年の冬はどないすんねん」
押入の衣装ケースがまるまるふたつ空になり、下宿の部屋は大学に入った当時のように広くなった。
そんな部屋にいるのがいやで、かといっていまさら真面目に授業へ出るだけの気力もない。仕送りが途絶えて既に一年、食いつなぐためのアルバイトに追われて毎日欠かさずやっていることといえば喫煙だけ。
「アホか、オレは」
もう一度、繰り返す。
「いつまでもグジュグジュ煮え切らんでホンマに」
飴色のライターを思いきり握りしめると、ギリリと軋む音が響いた。
このまま握りつぶしてしまえたら、多少は気が晴れるだろうか。
「しかも物に当たるて。最低やな……」
ポケットの中の潰れたタバコを取り出し、そのままくわえた。しかし、手の中のライターは弱々しい火花を飛ばすばかりで一向に燃え上がろうとしない。
瞬間、激しい苛つきを覚えた。
それはかなり衝動的なものだった。特に儀式的な思い入れもなく、ただこれで苛つきを解消できればラッキーだというぐらいのつもりだった。
「あー、不法投棄だ」
脇からの声を無視して、僕は眼下のアスファルトに目を遣った。
「ダンプ通過ダンプ通過。うわ、スプラッタ」
陸橋の下の道路に、くだけたライターの破片が散らばる。
わずかながら原型をとどめていたそれらが後続車のタイヤですりつぶされていくのにあわせて、僕の中のイライラが小さな痛みを残して消えていくような気がした。
「あれ、何捨てたんですか」
「要らんモン」
「すごい気になるんですけど」
横に立ったまま道路を眺めている人間の存在を、その時はじめて意識した。
「……何見てんの、君」
「犯行現場」
見知らぬ──、わけではない。顔は知っている。
でも、名前は覚えていない。
再履修の授業で同じクラスの後輩だ。だからきっと学科も同じなんだろう。
「授業、ええの」
「先輩こそ再履なのにいいんですか」
それは、ほんの気まぐれ。あるいは気の迷い。
リハビリという単語が、瞬間頭を巡った。
「ヒマなんやったら」
「はい?」
「茶でもしばこうか」
「うわ」
慣れないことをするもんじゃない、という後悔よりも早く返事は返ってきた。
「こっちの人ってホントに“しばく”って言うんですねー。わたし、絶対漫才の中だけだと信じてました」
「君、面白い。いっしょに来なさい」
春の風は、まだ冷たかった。
ひとりでは、耐えきれないぐらいに。
……逃げてる?
いやいやそんなことはっ。