タマ姉ネタ帳。

「お疲れさまでした」
 カリスマというものを、私は信用していない。戦略も布石もなしに人の心を掌握してしまえるなんて、あまり気持ちのいいことではないから。
 でも、何千人何万人の中には本当にそういう人がいるのだろう。少なくとも、今日の彼女はまさしく万に一人のカリスマだった。
「いやー、一時はどうなることかと思ったわ」
 講堂の裏手、熱気で屋根が抜けそうな仮設楽屋の中。Tシャツ一枚でパイプ椅子にあぐらをかき、実行委員会お手製の扇子を仰ぐその姿が異様なほど堂に入っている。ふと「大姐」という単語が脳裏をよぎった。
「さすがですね」
「んー、一応仕事みたいなもんだからね。やっぱり結果は出したいでしょう」
 オシゴトは甘くないわよ学生さん、とでもいいたげな上目使いで猫がこっちを向いた。いや、そんな可愛らしい動物じゃない。そのカリスマも含め、彼女を例えるならそれは間違いなくライオンだと思う。
 来栖川。
 旧三大財閥に連なる六大企業集団にも匹敵する経済を、たったひとつの名前で束ねている現代の怪物。総合商社に重工業、鉄道金融教育家電と数多くのグループ企業を傘下に収め、この時代にあってすべての活動に一切の外資を寄せ付けない純和製コングロマリット。目の前にいる二歳年上の女性はその三代総帥の令嬢であり、同時に日本発の総合格闘技大会「エクストリーム」で初回二回と連覇を成し遂げたリングの女王であり、知らぬ者のない売れっ子のアイドルであり、女子大生でありながら自ら起業した人材派遣会社のCEOでもある。
 形骸化した家柄だけを頼りに二十一世紀の今も箱入り娘を生産しつづけている九条院のような世界では、彼女のように押し出しの強い人間は間違いなく忌み嫌われるはずだった。加えて彼女が通っていた西音寺女学院はここ数年スポーツ方面での台頭が著しく、九条院とインターハイで直接対決することも増えてきていたから、「坂東の成り金娘」は生徒だけでなくOGやPTAにとっても不愉快な存在だったろう。
 でも、彼女は針のむしろを悠然と歩ききってみせた。いや、むしろ蹴散らしたというのが正しいかもしれない。余韻と呼ぶには熱すぎる黄色い叫び声が閉め切った講堂の中からまだ聞こえている。それはもちろん、今しがた憮然とした表情で教員室へと立ち去った何人かのOGへ向けられたものではなく、彼女らを完膚無きまでに論破したこの猛獣をカーテンコールへと呼び寄せる笛の音だ。
「どうする? 顔ぐらいならもう一度出してもいいけど、収集つかなくなりそうな気もするわね」
「ええ、こうなっちゃ先生方もあまりあてになりませんし」
 今だけの話じゃない。きっと学祭が終わってしばらくの間、先生たちは浮き足だったみんなの頭を押さえるのに追われることだろう。少なくとも、期末試験がやってくるまでの数週間ぐらいは。
「予定通りここで終わりでいいと思います。お忙しいところをありがとうございました」
 改めて、深く頭を下げた。
 彼女をここに呼びつけようと焚きつけたOGたちも、実際にコンタクトを取った三年の実行委員もここにはいない。私の中に彼女への好意など微塵もないけれど、最低限の礼節は尽くしておきたかった。
「あなたもね」
 敗戦処理の理由など、誰にもわかってもらえなくていい。
 でも、その一言で私まで負かされた。
 嫌な人だ。
 来園した時のシックなスーツとは対照的に、やたらドレッシーなワンピースがガーメントケースから現れる。最初からこちらの方で出てこないあたり、場所も敵も分析済みだったのだろう。これじゃ勝てるはずがない。
「でも見てると向坂さんも大変ねえ。ひとりで何もかも」
「いえ、務めですし」
 武芸館から借り出した畳を起こしながら、目を合わせずに答える。
 私自身、随分と古風な女へと洗脳されたものだと思う。気付けば九条院の中で過ごした年月がそれまでの時間を超えようとしている。それなりに好き勝手にやっているつもりでも、彼女のように世間に出れば所詮はお嬢さまの手慰みだったと思い知らされることだろう。
 幸いなるかな、今のところそのつもりも予定もない。上手な息抜きの仕方をこっそり後輩たちに教えながら、わずかに残された学生生活を粛々と送るのみだ。
「務めって……」
 荷物を詰め終えたライオンが大げさに苦笑する。
「まあ確かに学祭の実行委員長なんて楽しいもんでもないでしょうけど、そう肩肘張ってると疲れちゃわない?」
「期待に応えるのは嫌いじゃありませんから」
 嫌味は込めないようにしたつもりだったが、どうしてもそういう言い方になってしまう。染まってるな、と感じる瞬間だ。
「来栖川さんも、期待には応える方じゃないんですか」
 多少でも紛れればと付け加えた一言を、彼女は見事にやり過ごす。
「綾香でいいわ。でもね、楽しい部分を見つけておかないと何ごとも続かないわよ。褒められるばかりがモチベーションじゃ、失敗したときに困るでしょ」
「失敗……しないでしょう」
 それは彼女のことでもあり、自分のことでもある。失敗などありえない。挫折などするはずがない。もしそのような気配でも感じたなら、私は全力で回避するだろう。たとえ何ひとつ成し遂げられず終わることになったとしても。失敗を失敗で終わらせなかった彼女と、失敗を失敗と認めない私。その結果に大きな差はあるだろうけれど、当人以外にその意味はわからない。
「確かにね。しなさそうだわ、あなた」
 絶対にそりの合わない相手だと読んでいたけれど、察しがいい分だけ学内の人間より喋っていて楽だ。こういう人が先輩なり同級なりにいれば、私も少しは自分を保てただろうか。
 この純粋培養された悪意の沼の中で。