13年も経てば。

20080117

幼稚園児が大学生に。
当時の中学生だって新しい家庭を持っているかもしれない。
新卒社員も転職が難しくなる。
そんな十二支ひとまわり。

寒さで思い切り出遅れる。
いつもの出勤より少しだけ早めに家を出て、東公園へ。

ボランティアとマスコミがほとんど。
竹灯籠をぐるりと見て回る。

一昨日、NHKのおはよう関西で尼崎市東園田町の町会が紹介されていた。個人情報保護の観点からなかなか整備が進まない災害時の要援護者リスト、その成功事例として町会長氏と地元住民の何人かが画面に映った。

一瞬、懐かしい顔が。まだ元気にしてはったんやと安堵する一方で、映らなかった人たちの「その後」に思いを馳せる。


地区に入ったのは、震災から約1年を経過した年明け。
復興への取り組みの中で、国からの補助が受けられる密集住宅市街地整備促進事業の採択要件を満たすため、東園田町内のある地区で住民自らが立ち上げた「まちづくり協議会」への支援が主な目的だった。
まちづくり協議会は前年に設立されていたが、メンバーの対立などから初代会長が退任し議論は空転していた。町会との二元化をうまく消化できておらず、行政への不信も根深くて新会長を始めとする事務局との連携がうまくいっていない様子だった。

他にも大変な地区を多く抱える尼崎市が、任意事業である密集事業へ積極的に働きかけたのには理由があった。倒壊率の高かった当該地区に震災復興住宅を建設することで、木造密集の解消と被災者用住居確保の一石ニ鳥を狙ったのだ。隣接する戸ノ内地区では長らく地区改良事業への取り組みが行われていて、当初は一体的な地区指定を目指したという経緯もあった。

多い時で週2~3回行われる協議会の会合には、いろんな人が集まる。地区住民、市の職員、学者やNPO、そして各種コンサルタント。住民の中にもいろんな人がいる。地区から出て仮住まいしている人、残っている人、土地だけ所有している人。家が全壊した人、早く直したい人、決めかねている人。借家住まいの人、借地で持ち家の人、土地持ち家持ちの人。
まちづくりのような、成果の不明瞭な取り組みを事業と呼ぶのは行政寄りの人だけだ。住民の目にそれはあまりにもリスクの大きな賭けに映る。なぜなら、彼らが「身を切って持ち寄った資源」から生み出されるものとして行政が示す成果が、ただハードウェアの部分だけだからだ。いわく素敵な公園ができます、道路が拡幅されて延焼の危険が減ります、立派なマンションができます、と。そこに生活や地区文化(コミュニティ)再建の視点はなく、すべては住民の「やらなきゃもっと悪くなるんだな」という一種諦観をまとった後ろ向きのやる気に依存している。

僕がまちづくりという言葉にいまでも感じる嫌悪感は、主にその部分に根ざしているのだと思う。住民のため地区のためといいながら、物事が動き始めるその瞬間には「あきらめたこと」の方が圧倒的に多いのだ。そんな状態で年単位の施工期間を過ごし、戻ってきたらまた一から生活なり商売なり子育てなりを新しい環境で始めなければならない。そこまで疲弊させ、将来にまでのしかかるコストを投させてまで与えようとする「安全と安心」は、本当に彼らが必要としているものなのか。

協議会の運営や企画をお手伝いしながらそんな疑念は払拭されないままだったが、会長や事務局スタッフは地道ながら精力的な活動の中で徐々に信頼を得ていった。平日の夜だけでなく土曜日曜を潰しての勉強会、町会や子ども会と連動したイベント、まちづくりニュースの発行、復興先進地への視察旅行。慣れない住環境のなかで普段以上のハードワークをこなした後に会合へ参加されている人も多かった。
震災復興住宅の基本設計が完成し、会合に持ち込んだモデルを見たときの表情が忘れられない。これがわたしたちの人間関係をよじれさせ、見たくもない部分をさらけ出しあい、身体と神経のあちこちをすり減らせて作ろうと「している」ものなのだと。そう、まちづくりはまだ始まってすらいないのだ。本当の意味でのまちづくりとは、ハードができあがって戻ってきたところから始まるものだから。

まちづくり協議会との関係は3年間で終わりを告げた。会社と役所の契約がそこで終わったからだ。同時契約で進んでいた震災復興住宅の建設に関する業務は別ラインで続いていたが、時には丸ひと月休み無しでかかりきりだった東園田に僕自身が再び足を踏み入れることはなかった。
震災直後の業務には、こうして尻切れトンボに終わったものが少なくない。芦屋市の中央地区の震災復興計画もそうだった。ひどいものでは作業だけ延々とさせられたあげく、補正でも予算が取れずただ働きに終わったものもある。経緯上道義上と引き受けて、似たような経験にあった土木建築系の事業者も近畿圏には珍しくないはずだ。

阪急電車の車窓からは、地区の北端に屹立する震災復興住宅が見える。その向こう側に広がっているはずのまちなみの「その後」を知るのが怖くて、地区を訪れることのないまま10年が経過した去年。新調したスクーターの慣らしで近郊を走り回っていた深夜、唐突に東園田のことを思い出した。
どうしてかはわからない。役人という生き物を以前より間近で見るようになり、その危機感と住民視点の欠落に頭を悩ませるだけの今の状況が、胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発しながらも「目の前の人が(本当は)なにをしてほしいのか」を考えていた当時を甘く思い返させたのか。

恐れも期待も裏切って、まちの様子は予想とほとんど変わっていなかった。名神高速の高架を背景にそびえる震災復興住宅だけが記憶の風景を否定するけれど、配置図立面図パース立体模型と追いかけてきたそのフォルムに大きな違和感はない。
3年間通った阪急園田駅からの通りを逆走して地区を抜け、神戸へ戻るまでずっと考えていた。あそこにどれだけの幸せが残り、どれだけの幸せが生まれたのか。いまや住民先導の先進事例として取り上げられるにまで至ったあの地区を、僕は地区ではなく人の集まりとしてしか捉えられない。

自分がどこまで関われたか、なんてことには興味はない。「機嫌よくやっててくれればそれでいい」というスタンスは、相手が家族でも友人でも恋人でも変わりない。ただ、どういう形であれ人と関わりを持つのであれば、ただ相対している人が喜ぶかどうかだけを価値判断の基準にしたい。取り巻きやらステークホルダーやらに患わされるなんてまっぴらだ。
行政という、効率が悪く融通の利かないフィルタを通して仕事をしていることの意味はこの一点に尽きる。昨今の「効率化という名目で導入される財務指標に軸を揺さぶられている役所」が許せないのも、「枯渇した(と思いこんでいる)リソースを市民の参画と協働で補う」というメソッドが認められないのも、公共というものが掲げた大義にいまだ信を置いているからだ。

暗闇の中、そしてブラウン管の向こう側にひとりひとり思い描いた「公を支えた民」に対して、「十分には公たりえなかった官」は報いることができるのだろうか。クラス委員長レベルの責任感しか持っていない地方公務員の多くは、国がハシゴを外した今になってもまだ「住民に裏切られることなどありえない」と本気で思っている。