夏のおわり (「To Heart」より)

 初出:”To Heart Fan Novel Book” (1999/12/24)


「ありがとう、ここまででいいよ」
 後ろで彼女がそう言った。
「すぐじゃねえか。家まで送らせろ」
 重ねる一言は、さらに彼女を追いつめる。それでもオレは自分自身の後ろめたさをこんなことで埋め合わせようとしていた。
「──うん」
 掠れた声が応えた。

「夏のおわり」

誰よりも僕を判ってくれていたと
認めよう だけど
見送りのホームに 終電まで
付き合ってくれたのを
口実にするほどの傲慢さは
ずいぶんと昔に捨てしまった

 聞こえないようにため息をひとつ付いてから歩き出そうとして、ふと学生服の裾が引っ張られていることに気付く。
 制服の裾を掴んだ彼女の表情は、春に比べまた少し長さを増した前髪のせいでよく見えない。

 どうした──問いかける声は、喉元で止まった。
 ぴん、と張った生地の先から途切れ途切れに震えが伝わってくる。

「ねえ」
 予想していたよりも、かなりはっきりした声。
「ひとつだけ聞いて、いいかな」

誰よりも 君にわかって欲しかったと
認めよう だけど
それだけを理由に 閉まるドアの
向こう側から君を
抱き寄せるだけの勇気は もう
とうに使い果たしてしまった

 秋がもう、そこまで来ていた。
 肺に詰まった空気だけが、過ぎ去った夏を引きずっている。
 吐く息はまだ──熱い。

「もうちょっと」
 いつの間にか、震えは止まっていた。
「もうちょっとだけ、勇気があったら」

 聞かなくちゃいけない。
 想いに気づかない振りをしてきたのは、オレも同じだから。

「立てたのかな、私」

 きっとそうさ。
 だってオレには、お前しかいなかったんだから。

「浩之ちゃんのとなりに」

 息を吸う音が、頭の中で大きく響いた。
 頷いちゃいけない。
 抱き寄せちゃいけない。
 しょうがねえなあ、なんて顔をしちゃいけない。

「判んねえよ、そんなこと」

 台詞は、吐き気がするほど陳腐な出来だった。

もし僕が いつもと同じように
自分を欺いているというのなら
君は 僕の最後の嘘を
聞き届けなくてもいい

「志保のこと、許してあげてね」

 左の頬に残る鈍い痛みがぶり返す。
 こういう時は、なんと応えればいいんだろうか。

「気にしてねーよ」

 いつも、言ってしまってからイヤになる。
 気にしてないなんて大ウソだ。あいつがどうしてあれほど怒ったのか、その理由に気づいていないわけじゃない。

 ──どういう神経してんのよ! 一体何年あかりと付き合ってんのよ!
 そんなこと言われて、この子がどういう返事するのかぐらい──

 オレは絶対にシナリオライターにはなれないだろう。
 役人にも、俳優にも、ジゴロにも。

もし君があの日 あのとき
最後の勇気を出していたのなら
僕は 濡れたホームで
両手をついて謝ってもいい

「浩之ちゃん」

 視線は、遠くの街灯へと逃がしていた。
 改めてオレは彼女の顔を見る。

 見慣れた顔。
 初めて見る表情。
 ここ数日、オレはこの十年以上付き合った幼馴染の、本当にいろいろな表情を見てきた。
 全部オレの言葉が引き出したものだった。

 どれも、二度と見たくない。
 あかりを泣かせたくない。
 あかりを笑わせたい。
 それはもう、望むことしかできないのだけれど。

「最後に、お願いきいて」

 あかりはまた、見たことのない表情を浮かべる。
 笑っては、いない。
 泣いては、いない。
 まるで無機物を見るようなその瞳。

「最後だなんて言うな」

 また場違いな言葉が、口をつく。
 どうしてここに、そんな台詞が入るのか。
 もうキレイゴトは言い尽くしたはずなのに。

「最後だよ」

 気の利かないアドリブは、一言で斬り捨てられた。
 感情の籠もらない、まるでニュースのナレーションみたいな声で。

「──浩之ちゃんの胸で泣かせて」

僕は嫌いだ
君の未来と僕の過去を紡ぎあげてしまう
君の言葉が嫌いだ

「やめようぜ」

 オレは最後まで自分で決められない人間なのかも知れない。
 あかりという日常を失うのが怖いだけなのかも知れない。

「おまえ、それでなかったことにするつもりなんだろ」

 あかりの表情が、一瞬強ばった。
 かみしめられた唇は、見ている方にも痛い。

「好きとかどうとかいうのと一緒に、十年来の幼馴染ってのもさ」

 自分のことは棚に上げて、よくもそこまで言えるものだ──志保が聞いたら、今度は反対側の頬も殴られそうだ。

「オレは、そういう……」
「──いっしょなんだよっ」

 甲高い声は、既に夕闇に包まれていた公園の中でやけに大きく響いた。
「幼馴染なんて関係ないんだよ。私ははじめから、最初から浩之ちゃんが好きだった」
「あかり……」
「絶対できっこないよ。これからも幼馴染で仲良くなんて、無理だよ。だって浩之ちゃんは幼馴染なんかじゃないもん。私の一番好きな人なんだもん!」
「── じゃあ何でそういわなかった!?」

 信じられないものを見たような、驚きと恐怖が入り交じったような表情が、目の前にあった。

 あかりは“最後”という。オレは“始まってない”という。
 巻き戻したいわけじゃない。気づかない振りをしていた自分を弁護したいわけじゃない。ただ、無かったことにするのは嫌だった。
 オレはどうしても言わなきゃいけない言葉を腹の底から無理矢理引きずり出す。

「何も終わってないぞ。だって何も始まってなかったんだからな」

 オレとあかりの周りで、空気の流れが一瞬──止まった。

僕は嫌いだ
弱気な本音と強気の嘘をすり替えてしまう
君の瞳が嫌いだ

 それは恋じゃなかった。
 けれどあかりは、オレにとって間違いなく一番大切な女の子だった。
 それは恋だったのかも知れない。
 そしてオレは、あかりにとって一番大切な男の子だった──のだろう。

「だったら」
 もう顔は見れずにいた。オレは、あかりの小さな靴を睨みつけながら、次の台詞を懸命に思い出そうとしていた。
「これから始めようかな」
「──えっ」
 予想にないあかりの言葉に、オレは焦って頭を上げる。

 あかりは、笑っていた。泣いていた。喜んではいなかったけれど、怒ってもいないように見えた。
 いろんな想いが──多分、十数年間の想い全部が ──その表情の中にあった。生まれてからのほとんどを占める、これまでにあかりと過ごした毎日が見えた。オレはそれを、本当に綺麗な顔だと思った。
 言葉が、消えた。

「ふふっ」
 その表情が、一瞬だけ揺れた後。
 あかりは小さく笑い声をあげた。

「浩之ちゃん、すごく困った顔してるよ」
 いつもと同じように見えて、まるで違う。
「そこまで本気で困ってる浩之ちゃんって、初めて見た」
「そりゃ、おまえ──」
「もうちょっと困らせてあげる」
 オレはあかりの真意を捉えられないまま、木偶の坊みたいに突っ立つしかなかった。

あの日々が あの輝きが
二度と蘇らなくても
想いは糧にしてみせると
言い切る君の 強さが

「虐めてあげるよ。浩之ちゃんも、綾香さんも」
「あ、あかり……」
「綾香さんて、どんな人なの」

 冗談なのか。
 本気なのか。
 さっぱり判断が付かずにうろたえるオレを、あかりは笑みを消して見上げている。

「どうって……志保とレミィを足して割ったような感じ、かな」
「やっぱり来栖川先輩みたいな美人なのかな」
「顔はまあ似てるけど、中身は正反対」
「ふうん」

 街灯の光が作る、縫いつけられたように動かなかった二人の影が離れた。

「浩之ちゃんって、そういうのがタイプだったんだ」
「おい」

 あかりは二、三歩後ずさりすると、踵を返して公園の奥へと歩き出した。
 足が勝手に、後を追う。
 追ってどうするんだ、という自問すら出なかった。

重ねた言葉の 重さに
いつも押し潰されながら
次こそは 今度こそはと
呟く僕の 弱さが

「そういうタイプの子はね、気をつけなきゃだめだよ」

 オレたちの育ってきた街が、眼下に広がる。
 子供の頃は果てなく広がるように見えたこの夜景も、今では隅々まで知り尽くしている。

「強そうに見えても、本当はすごく繊細だったりするから」

 おまえはどうなんだ──とは聞けない。街での暮しと、ほぼ同じ年数を一緒に過してきたはずのあかり。その心が今、オレには捉えられない。

「志保とかもそうなんだよね。逆に私みたいなのって、意外と平気なんだ……うん。そんなに、弱くない。だから」

 振り向いたあかりは、ようやくいつもの表情を取り戻していた。

「綾香さんのこと、大事にしなきゃだめだよ」

 街灯の影に隠れた頬には、確かに涙の痕が見えた。
 欲しかった、そのままの言葉をくれた。あかりは、オレを許した。
 だからこそオレには、返す言葉がない。

「浩之ちゃん、返事は?」
「あ、ああ」
「返事もろくにできないような子に育てた覚えはないよ」

 瞬間、あかりがとても大人びて見えた。
 それはきっと錯覚じゃなくて──ひと足先に卒業をすませた、余裕の笑みだったのだろう。

「なっ──」
「ふふっ、お姑さんモードでした」
「こいつ……妙なレパートリー増やすんじゃねえっ」
「えーっ、私だって成長するんだよー」
「あかりギャグは成長しないからあかりギャグなんだよ」

 公園の入り口まで駆けていったところで、あかりは急に止まった。オレも、すぐ後ろで立ち止まる。

「浩之ちゃん」
「なんだ」
「── 私が元気になったら」

 振り向かないで、あかりは続けた。

「みんな、元通りになれるかな」
「どうかな。志保はもちろん、雅史も意外と意固地だし」
「雅史ちゃんは大丈夫だよ。後は浩之ちゃんが志保にちゃんと説明してあげれば」
「──そっか。じゃあ、もう一度殴られに行くか」
「青春だね、浩之ちゃん」

 オレは多分、また本当に嫌そうな顔をしていたんだろう。

僕は
君が
世界で二番目に好きだ

 あかりが笑った。
 さっきよりまた、少し綺麗に見えた。

[おわり]

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