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しらない場所 (「To Heart」より)

 初出: “Leaf Fan Novel Book” (2001/8/12)


 期待は外れた。
 よく考えれば、盛りの時期はまだひと月ほど先だ。
『それでも、ひょっとしたら』──そんな浮ついた気持ちの発見は嬉しくもあり、恥ずかしくもある。
 かつて馴染んだその場所へと、ゆっくり足を踏み入れる。こんな歳になっても妙な後ろめたさを感じてしまう自分が少し可笑しい。
 大学時代にD.C.へ旅行したとき以来だから桜自体が七年ぶりだ。この並木を最後に見たときから数えると、もう十一年が過ぎている。

「しらない場所」

 まだ春休みということもあり、グラウンドは部活動に精を出す生徒達が多い。自らも身に纏ったあの可愛らしい制服は、残念ながら見あたらない。
 築二十年を過ぎ、僅かにくすんだ校舎を見上げる。
「こんなに」
 小さくは──ない。当たり前だ。これが小学校ならば少なくとも寸法は小さかろうが。
 自分たちは少子化が問題視されるより前、この国最後のベビーブーム世代だった。新興住宅地に建てられたその高校も、全学年が十クラス近くを擁していた。
 視線を水平よりやや上に固定したまま、ゆっくりと目を閉じる。まだ冷たい空気を深く吸い込みながら、当時の記憶をたぐり寄せてみる。
 意味のないこととは、知りながら。

 ステイツに戻る気などさらさら無かった。学校の、クラブの友人たちと別れることなど想像すらしていなかった。
 フリスコの幼馴染みの顔はひとりも思い出せなかったし、たまの休日耳にするジョージの英語すら煩わしく思うほど、私は彼の国を縁遠いものと感じていた。
 自分はこのままこの国で暮らし、短い大学生活を満喫し、それなりの企業でOLを勤め、母の手料理の幾つかを身につけ、そしてこの国の人と結婚し子供を──そんな風に、朧気に思い描くようになっていた。
 だから、わざわざ不景気で治安の悪い国へ戻る理由など何一つ無いのだと信じていた。
 十一年前の、あの時は。

「ふふっ」
 ひとつひとつ、今の自分に当てはめてみる。

 外国人証明書。
 ワーカホリックのコンピュータエンジニア。
 二十八歳。
 未婚。
 恋人──いない歴、もうすぐ十年。

 本場ではまったく通用しなくて、すぐにあきらめたバスケットボール。何度も勧められながら結局一度も出なかったオーディション。ほとんどを図書館と電算室の中で過ごしたカレッジライフ。その延長でしかなかった職場。彼の国で、私は信じられないぐらい日本人的な価値観に縛られて過ごしてきた。
 それは単なる天の邪鬼だったのだろうか。振り返ってみれば不思議なことに、私はステイツにいる間ただの一度も『戻りたい』と口にしたことがなかった。

「ならなんでここにいるの」

 桜並木がある高台の高校。
 中学の頃からあこがれていた制服。
 クラスの、そしてクラブの友達。
 あのとき、あの瞬間。私は『日本に残りたい』と強く願った。父の言い分も、母の説得も耳に入っていなかった。
 それでも口に出せなかったのはどうしてだろう。独りでもいいから日本に残ると言えなかったのはなぜだろう。もう半年、せめて卒業まではと食い下がらなかったのはなぜだろう。
 拒絶の叫びは、頭の中で渦を巻いていたのに。

 ヘレンのせいだろうか。
 ただ泣いて暴れるだけの彼女が嫌だったのだろうか。
 喚けば何でも通る、甘やかされた妹に対するささやかな当てつけだったのだろうか。
 忘れてしまった。
 それもきっと、忘れようとした努力の結果なのだろう。考えてもしかたない──そればかり繰り返してきたような記憶は、確かにある。

「あの」
 背後から不意にかけられた声に、慌てて振り返る。
「ひょっとして、宮内さんじゃありませんか」

『お世話になります
 実は
 身内が
 この春からこちらで』

 対教師用にとあらかじめ用意してあった台詞はかろうじて喉元で止まった。それでも不随意筋になってしまった顔面からは十分に狼狽ぶりが伝わっただろう。
 十年振りの母校にスーツ姿でやってきて、いきなり名指しで呼び止められる──そこまで想定していなかったのは迂闊だったのだろうか。

「やっぱり。シンディ先輩ですよね」
 人懐こい表情をした、同年代であろうその女性が満足げに微笑む。手遅れとは知りつつも、平静かつ違和感を感じさせないよう気を付けながら普段の表情をつくった。
 改めて彼女の顔を確認する。残念、いやむしろ予想通り、すぐに思い出せる相手ではなかった。数ヶ月で途切れた同級生との手紙のやりとり以降、この国との接点がほぼ皆無だったことを考えればそれもまた致し方ないだろう。

「すごいなあ。奇遇っていうかむしろ奇跡?」
 覚えのない日本語の文法を訝しむ一方で、数少ない可能性に思考を巡らせてみる。
 先輩と呼ぶからには、間違いなく高校の部活動関係だろう。しかし、いかんせん十一年前の話。いきなり思い出せとは無理な話だ。
 しかも当時、この高校の女子バスケットボール部には毎年二十人近くの新人が入っていた。一学年下のレギュラーならば何人かは名前も覚えているが、ふたつ下となるとかなり絶望的だ。

「あ、ひょっとして英語」
「大丈夫ですよ」
 黙りこくった私の様子から、言葉が通じていない可能性に行き当たったようだ。気遣い有り難い。しかし、日本語は忘れても自分は忘れられていないと思えるあたりの神経の太さはどうかと思う。
「覚えてませんよね、さすがに。いきなりすみませんでした」
 心の声が聞こえたわけでもなかろうが、残念そうな風もなく彼女は頭を下げた。そう来られるとこちらの居心地も悪い。つい、余計な言い訳が口をついて出る。
「いえ、こちらこそごめんなさいね。何しろ日本に戻ってきたのもつい先週のことで」
「そうなんですか。じゃあ、日本語通じただけでもラッキーだったのかな」
「そうかもね」
 そこまで応えたところで、バックグラウンドで続けていた検索に引っかかるものがあった。めまぐるしく変化する表情と小動物的な雰囲気、そしてこの妙な気安さが。
 ふたつ下なのに覚えていたのは、一年生でただひとり夏前にレギュラーに登用されたという一点からだった。

「じゃあ、お仕事関係か何かで」
「佐藤さん」
 被せた呼びかけに彼女の笑顔が一瞬固まる。思い出したばかりの当時の呼び方で、もう一度名前を呼んでみる。

「佐藤……ちえみちゃん、でしょ」

 固まったままの彼女に声を掛けようとした瞬間、二十も半ばを過ぎたいい大人とは到底思えないクシャクシャの笑顔から元気な返事が返ってきた。

「はいっ。佐藤千恵美、ポイントガード志望です」

「そう……おめでとう。よかったね」
「おかげでかなりバタバタしちゃってますけどね」
 マリッジブルーとは無縁そうにも見える彼女が幸せそうに笑う。同い年の二十五歳、大学時代からのつきあいという。
「本当はもうちょっと、できれば来年ぐらいにしたかったんですよね」
「何か予定があったの」
 瞬間、大きく見開かれた目が私をとらえる。その焦点がゆっくりと背中越しに移ろっていくのを感じながら『しまった』と思う。
 私らしくない。自分の想像力と分析力が及ばない範囲には首を突っ込まないことにしていたのではなかったか。

「受験だったんですよ、弟が」
「大学?」
「いえ、ここの」

 懐かしい校舎を見上げる。
 彼女の目には、私が見ている風景とはまったく違ったものが映っているのだろう。ごく当たり前の現実と感傷が入り交じって、自分の存在の正当性がゆっくりと薄らいでいく。
 私は、何をしにここへ来たのだろう──?

「サッカーやってるんですけど、うちってそれなりに強いらしいんですよ。最近は」
「そうなの……私たちの頃は話題にも上らなかったような気がするけど」
「そうですね、Jリーグとか始まる前だし」
 彼女が私の知らない日本を語る。私が拒絶した変化を、私が葬った過去の延長を語る。確かに存在した記憶を語る。
 おそらく私には、外からこの国を客観的に見つめる資格があったのだろう。その気にさえなれば接点はいくらでもあったのだから。
 でも、私の中の日本は十一年前にその変化を止めた。日本から届くあらゆる情報から目をそらした。頑なに耳を閉ざした。手を伸ばすだけで届くはずの、それらすべてを無視して生きてきた。
 そして今、代償を支払う時を迎えている。確たる意志もなく日本を去った私は、また周りの都合に流されるままこの国へと戻ってきてしまった。

「けど、あんまり変わらないもんですね。人間って」
 突然に振られた言葉に、どう返したらと考える。
 私は変わらなかったと思う。私の記憶の中の彼女と、今の彼女も大きくは変わっていないと思う。
 けれどその“変わらなさ”は全然違うのだ。変化を強要されながら変わらない振りをしてきた私と、地に足を着けてあるべき道を成長してきた彼女とでは。

「そうでも、ないわよ」
 どこがどう──と訊かれても答えられそうにない否定。言葉にするだけの価値もない返事。口に出した瞬間に揮発してしまうような、無意味な本音。
 なんだか、幽霊みたいだ。
 成仏できないまま、生前暮らしていた家へとふらふら戻ってきた私。迎えるものもなく、記憶を呼び覚ますような品も残してはいない。
 ジョージのような“親日家のアメリカ人”になりきれるはずもない。その気になれば大勢の親類と顔を合わすことのできる母とはもとより違う。あるいはいっそ、ミッキーのようにすべてを物珍しいと感じられればそれも幸せだろう。
 期待に胸弾ませるヘレンの笑顔すら疎ましく、私は微妙に色合いの変わった町並みの中で『戻ってきてしまった』と誰とも無しに呟くだけ。
 それは十七歳のあの日、どこまでも青い空の下でひとり漏らした呟きと同じだ。ただひとつ違うのは、内からこみ上げる物すら失ってしまったという自覚。
 あの日から今日まで、自分は失うことばかりを繰り返してきたのだろうか。

「そうですか? 私はシンディ先輩も変わってないと思いますけど」
「そうかな」

 私はただ、あの時の“今”を失いたくなかっただけなのだろう。確たるものは何もなく、失う以上を得る可能性も想像できず、失わないための方法にも知恵が及ばず、思考を停止したまま十一年間を過ごしてきたのだろう。

 ロジカルを売りにしているのは、それしかないからだ。
 潔癖性はただのポーズだ。
 他に何もないから、上辺でわかりやすいキャラクターを演じているだけだ。

「あ、いや──わかんないですけど、なんとなく」

 その結果が、これだ。
 二十八にして未だ足下に自信がない。
 自分の立っている場所がわからない。
 帰るところも見つからない。
 迎えてくれるものもいない。

「ごめんなさい」
「謝ることでもないわ。ちえみちゃんがそう感じたのなら、きっと変わってないんだと思うし」
 誰にも変化は訪れる。私が、彼女を一目で認識できなかったように。いつまでも十代のままではいられない。少なくとも、肉体的には。

 話題のストックが尽き、風の音が気になりはじめた頃。
 私は、学生の頃に年老いた教授から聞かされた言葉を思い出していた。
 それは、受け取る立場によって大きく異なった意味を持つ言葉だった。残念ながら私にとっては──時を過ぎても、場所を変えても──自分のすべてを否定するものでしかなかったが。

どれほど長くその土地で暮らそうと
多くの土地の者と親しくなろうと
あなたは自分の生まれた土地のほかに
もうひとつのふるさとを持つことはできない

あなたはその土地に留まるため
不断の努力を強いられるだろう
あなたは残りの人生を
よそ者と呼ばれて過ごすだろう

ふるさとを捨てた罪は重く
あなたの生涯では贖いきれない
あなたと息子の一生を費やした後
その息子が土地の者となるだろう

 どうして私は日本に戻ってきてしまったのだろう。あのまま、ステイツでの暮らしを続けていれば、こんなことは考えずにすんだのに。
 十七歳のあの時とは違う。今度はステイツに残るのが正しい選択だったのだ。父の事業も、業務提携による来栖川電工への派遣もすべては言い訳に過ぎない。
 私のイレギュラーな行動が誰にも咎められなかったのは、馴染もうとしない姿をよく見られていたということなのだろう。

 ステイツに、帰ろう。
 私の生まれた場所へ戻ろう。
 たとえどれほどに馴染めない土地であろうと、あそこが私の生まれ故郷であり、母国と呼べるただ一つの国なのだから。
 碧い瞳もブロンドも人混みに埋もれてしまうあの国で、あの国の流儀に従って暮らしていこう。
 あれほど離れたくなかったこの国に、一度でも戻って来られただけで十分だ。たとえそれが自分の愚かさをしたたかに思い知らされるだけの経験であったとしても。
 この決心が付けられたという一点において、価値のある“来日”だったと思えるようになるだろう。
 そういうのは、得意なのだから。
 不本意ながら。

「そろそろ帰るわね。懐かしい話ができて、嬉しかったわ」
「あれっ、もうこんな時間ですか」

 いつしか風は、音にふさわしい冷気をまとっていた。

 つぼみに身を固めた桜を見上げる。
 満開の花が散り、蒸し暑いこの国の夏がやってくる頃にはプロジェクトも一段落するだろう。
 できることなら、ヘレンにはこの高校を卒業して欲しいと思う。今のステイツの状況を考えると、ミッキーも義務教育までは日本ですませた方がいいだろう。
 自分勝手な押しつけまでロジカルにまとめようとするあたりが、あまりに自分らしいと改めて思う。

「じゃあ」
「はいっ。じゃあ、また」

 ……また。
 “また”は多分、ない。
 そう思った瞬間、このまま何も告げずに別れることが酷く罪深いことのように感じられた。

「あ──」
「はい?」
「あ、えっと……」

 言い淀む。
 それを伝えたから、どうだというのだ。
 どういう経緯で日本に戻ってきたのか、今後どうする予定だったのかも明かしていない。
 その上で私の決心を口にしたところで、彼女はどう対処したらいいのか困るだけではないのか。

 そうだ。
 このまま黙って消えた方がむしろ──

「先輩」

 薄口を開けて硬直したままの私を、彼女が見上げる。
 無意識のうちに懇願の表情を求めてしまった自分を悔いる。

「黙って消えちゃダメですよ」
「えっ」

 予想外なことに、その表情にはわずかながら悪戯っぽい雰囲気が見て取れた。

「どういう御予定か知りませんけど、少なくとも夏には日本にいてくださいね」
「夏にはって……何で」
「だって」

 彼女はもう、完全に笑っていた。それも、悪戯の成功を確信した子供と同じ笑い方。高校時代の部活明け、駅前のヤクドナルドでバカ騒ぎしていたときとまったく同じ顔だった。

「盆って言ったらOG総会じゃないですか。先輩みたいなレアキャラ連れていったら盛り上がること請け合いですよ」
「あ、あのね……」
「あのは無いです。先輩、忘れてるでしょ?」

 二十センチ下から私を見上げる視線で思い出したのは、まったく関係ないことだった。
 一年生の彼女がレギュラーに抜擢されたのは、身長差をものともしない性格そのままの強引なカットインであったこと。生意気といいつつ可愛がる上級生が多かったせいか、打ち上げなどではいつも仕切り役を仰せつかっていたこと。
 最後の都大会を三位で終え、打ち上げ兼引退式で泣いたこと。どこからか紛れ込んだワインですっかり酔っぱらったあげく、私の部屋で十人が雑魚寝したこと。翌日、学校には試合の疲れと偽って全員でディズニーランドへ遊びにいったこと。

 どこにしまってあったんだろう。
 楽しいことばかりだったあの頃。受験も就職も、先のことなんてほとんど考えてなかった毎日。明日のことも、昨日のことも忘れて空っぽの頭でボールを追いかけていた時間。

「女バスのOG会は三回連続で休んだらペナルティだって」
「……あ……え、えーっ!?」
「思い切り溜まってますよ、罰ゲーム」

 そんな大きな声が自分の中から自然に出たことに、もう一度驚いた。

「総会の度に『宮内先輩どうしてるかなあ』って必ず話になってましたからね。みんな覚えてますよ」
「……覚えてるのは顔じゃなくて罰ゲームのカウントのほうね、きっと」
「それは顔を出さない方が悪いんです」

 もう、笑うしかない。
 惨憺たる十年を海外で過ごしてきた人間に、よくもまあこれだけ自分勝手なことが言えるものだと感心する。
 そして自分が残された側であったなら、間違いなくそうやって迎えたであろうと気付いてしまう。

「わかったわよ」
 涙は、笑いすぎたふりをして誤魔化した。
「十年分の罰ゲーム、準備しておくわ」
「期待してますね。なんなら一緒にやります?」
「一緒って……あっ、こらっ!!」

 視線の先に、もう彼女の姿はなかった。
 振り向いた先には、いい歳した割に軽やかな足取りで駆けていく女がひとり。

「待ちなさい!! ちえみっ、あなたもサボってたのね!?」
「わたしはペナルティ一回分だけですよーっ」
「ってことは三年間じゃないのっ。なによ偉そうに──」

 サッカー部、野球部、ランニング中の空手部。グラウンドの誰もが唖然として私たちを見ている。
 奇声をあげながら体育館へ向かって走る、いい歳した女がふたり。

 構うものか。
 こちとられっきとしたPTAだ。
 加えて天下の女バスOG、怖いもの無し。
 文句があるなら校長でも理事長でも呼んでこい。
 ついでにいえば出資会社の社員だったりする私。
 この四月からだけど。
 ああ、もう──

「……どうでも、よく、なっ……」
「鈍ってますね、思い切り」
「デスクワーカーに……無理……いわないで」

 冷たい板張りの床へ倒れ込む。ドリブルとストップ&ダッシュが奏でるリズムに誘われ、それはとても自然に言葉へと変わった。

「──ただいま」
「おかえりなさい、先輩」

 簡単なのも悪くない。
 夏なんてすぐだ。待ってろ、みんな。

〔おわり〕

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