初出: “0812” (2001/8/12)
君にはだまっていた
気分の悪い話さ
ひがんだ奴らの
手アカの付いたウワサで新しい旅立ちを
汚したりはしたくないし
「なんで──」
「うちが呼んだ」
久しぶりに会った幼馴染みは、手引きをしてくれたかつての同級生──出身地である神戸の大学に通っていた保科智子──彼女以上に、大きな変貌を遂げていた。
「よけいなことを」
「まるっきり後腐れなし、いうのんは嘘やろ」
保科さんが笑う。悪びれる様子もなく、いっそすがすがしいほどの表情で。
ふと、疑問に思う。これは彼女の嫌った“はき違えた同情の押し売り”には当たらないのだろうか。
屈託なく笑う彼女を見ながら、あるいはこれが彼女本来の姿であるのかも、と考えたりする。
「あたしは別に」
「久しぶりなんやから、しゃべることぐらいあるんと違うん」
柔らかな視線と、めまぐるしく変化するその表情に違和感が拭いきれない。そしてそれは、言われるがままのもう一人の彼女に対しても。
「わかったわよ。じゃあ悪いけど、ちょっと外して」
「ん、みんなと向こうにおるから。後で呼んでな」
軽い足取りで去っていく友人を見送るその後ろ姿を、ぼんやりと眺める。
少し痩せたようにみえるのは、そのタイトなファッションのせいだけじゃなさそうだ。以前からちょっと目立つぐらいの美人だったけれど、近寄り難いほどに思えるのはきっとその冷徹な視線だけが原因じゃない。
綺麗になった理由は、聞きたくなかった。
「グッド・バイ」
空港に着くまで
何も話さずすごした
ゲートの向こう側で
1度こっちをふりむいた少しだけ笑って
何か言ったみたい
最後に会ってから、まだ二年も経っていない。自分の気持ちをうまく整理することに使うはずだったその時間は、思いの外にあきらめの悪い自らの性格分析に費やされて終わった。
そして今、改めて気付く。彼女と僕が、それぞれの時間を過ごしてきたことに。
「ごめん」
「いいわよ、智子の差し金なんでしょ」
「いや……それだけでもないんだ」
そのまま、言葉が止まる。
僕は彼女の訝しげな視線を流しきれない。
笑って肯いてさえいればよかった会話は、もう成り立たない。
ふたりの──いや、四人の関係を失ってしまった今は。
「忙しいんじゃないの」
視線を外して、彼女が呟く。
「今日は……オフだから。次は長居だし」
「新人君なんだからしっかり練習しなきゃダメじゃないの」
多分、サッカーのことなんてろくに知りもしないで言ってるんだと思う。それでも、彼女の言葉は素直に身にしみた。
人一倍頑張っているとは思う。結果も出していると思う。その上で、十分な評価も貰っていると思う。
それでも納得できないなら、それはもうサッカーとは関係ない部分で自分を処しきれていないのだろう。
理由のひとつが、目の前にいる。
「志保はどうなの」
「どうって」
彼女がこちらを振り向いた。
その視線の先には、今の僕がちゃんと映っているだろうか。
*
『佐藤君ってさ、あかりのこと好きでしょ』
そうだよ──そう軽く答えたときの彼女の表情は、今でも覚えている。僕はなんだかいけないことを言ってしまったような気分になって、慌てて言葉を繋いだ。
『長岡さんも浩之のこと……嫌いじゃ、ないよね』
『ん……? そうね、悪い奴じゃないのはわかったわ』
そんなことを話したいわけじゃなかったのに、話題に乏しい僕と彼女の会話はいつもそこへと収束した。
なにか間違ってる。
そう思いながら、僕はただ彼女と一緒にいられることだけがとても嬉しくて、笑いと、時には涙とともにこぼれる彼女の呟きを受け止めていた。
そう。僕たちはずっと、自分たちのことを棚に上げたまま浩之とあかりちゃんの心配ばかりしてきた。とても身勝手に。
*
「なんかね、このままだと負けっぽいから」
ベンチの隣に腰掛けるのもなぜか気が引けて、そのままフェンスにもたれた。
視線を合わせれば、きっと僕は我慢できない。
「負けだなんて」
「わたしにとっちゃ負けなのよ」
──じゃあ、僕は何なんだ。
言葉にはならない。僕は昔以上に臆病になってしまった。
ひた隠しにしていた。ただ、失うことだけを恐れて。
見守るだけの歪んだ連帯感。僕がその一言を口にした瞬間、すべては夏の汗のように身体中の熱を奪い消え去ってしまうのだと信じていた。
そしてただ一度、彼女にぶつけた醜悪な感情の表れ。それは僕の心に重い枷となってぶら下がっている。
「思えばさあ」
彼女が視線を外す。
待ち焦がれたように、僕は彼女を見る。
「最初っから負けてたのよね、あたし」
悲しいこと、つらいことばかり思い出すのはどうしてだろう。彼女と、そしてみんなで過ごした日々は、ただ楽しいことばかりの繰り返しだったはずなのに。
浩之はあかりちゃんを選べなかった。
あかりちゃんはそれを許してしまった。
僕は何も言えなかった。
志保は全部許せなかった。
だれも責められることはなかったんだと思う。
ただひとり、僕を除いて。
崩れ去る恐慌の中、ひとり彼女を求めるという反則を犯した僕を除いて。
「けど、楽しかったわねー」
「そうだね」
「居場所がある、ってのはやっぱりいいもんだわ」
「今は……ないの?」
目をそらす間もなく、彼女の視線が僕を射る。
でもその瞳は、とても優しかった。
見られている僕が、泣きそうなぐらいに。
「そんなわけ、ないでしょ」
「だったら」
「それが負けなのよ」
空から見おろす
ぼくらがいた街はたぶん
ゆがんだ笑いと
だるい空気のかたまりさ新しい暮らしで
とり戻したらいい
彼女が時計を見る。
僕は何かを伝えなければいけないような気持ちになって、口を半分だけ開いた。
でも、言葉は生まれなかった。
*
「じゃ、行ってくるわ」
こともなげに言い放つ彼女の瞳に翳りはなかった。
だから僕は、昔のように笑って送り出すしかなかった。
「ちょっと寄れ──っていうには遠いわね」
「そうだね。せめて」
「けどまあ、ワールドカップには取材に行くから」
轟音にかき消された僕の言葉に彼女の声が重なる。彼女の声だけが存在感を主張し続ける。
いつもそうだ。僕は自分の言葉の半分も伝えられないまま、ただ彼女の声を聞いていた。
結局、何も訊かれなかった。
だから僕は何も言わなかった。
彼女が残していく最後の思い出にそれは、不要なものなのだろうから。
彼女は旅立つ。夢を叶えるために。
僕は見送る。夢を眠らせるために。
東の空につばさが
消えてしまうと
何もない空に
残像だけが残ったどうして こんなに何回も
ぼくは手をふるんだろう
2度と そう2度と
もう会えなくなるみたいに…
「────」
前触れもなく振り向いた彼女の、声のような何かはもう僕に届かない。
呟いたそれは誰に向けた言葉だったのだろう。
もし、自分であったなら──そう思うだけの心残りは、まだある。けれどそう信じ込めるだけの無邪気さは失って久しい。
届かないと知りながら呼びかける声が、こんなにも美しく響くとは知らなかった。
聞こえないから、美しいのだろうけれど。
あの日から
ぼくらの毎日は
変わることもなく
今度はぼくひとりで
あきれた顔をするんだ時々君がどうしているか
少しだけ思うんだ
うまく そううまく
全てが続いていけばいい
改めて思う。
もう一度出逢うために必要な条件を、僕たちはすでに失ってしまっているのかも知れない。
それは僕たちが、僕たちであること。
二年前のあの日、捨て去った約束。
東の空につばさが
消えてしまうと
何もない空に
残像だけが残ったどうしてこんなに何回も
ぼくは手をふるんだろう
2度と そう2度と
もう会えなくなるみたいに…
晴れ渡る空を、たなびく一本の線が切り裂いていく。
それだけを確認して、僕は帰路へと就いた。
誰も待っていない、あの街へ。
〔おわり〕