「ううっ、どうかお気をつけて……」
言うまでもなく、マルチは顔面洪水状態である。遠慮なく注がれる奇異の目に負けて、オレと親父は一歩引いたまま他人のふりをしていた。
「ありがとうね、マルちゃん。浩之のこと頼んだわよ」
「はっ、はいっ! 精一杯お世話させていただきますっ!」
しつつされつつって感じかな……などと夢想していると、ひとしきり頭をなで終えたお袋がこちらを向く。
「ひろゆき! マルちゃんに任せたから、心配しないわよ」
「ああ。そっちこそ酒ばっか呑んでんじゃねーぞ」
タバコをもみ消しながら、やれやれといった感じで親父がため息を付く。
「ちょっと自分で稼ぐようになるとコレだ…おい、留年でもしようもんなら仕送り停止だからな」
「わーってるよ」
わざわざ駅まで見送りに来ることなど、滅多にない。親父とお袋に言っておきたいことが、もう少しだけあった。
けれど、そんな時間ももう無さそうだ。
「まあ、今度はゆっくりして行けよな」
「いつお帰りになっても良いようにしておきますっ」
一瞬顔を見合わせた後、ふたり同時に吹き出した。
「あんたたち……何よ、どっちが親か判んないじゃないの」
「ふう。我が家に腰を落ち着けられるのはいつの事だろうなあ」
なんとなく名残惜しいのを吹っ切るための照れ隠しは、綺麗にふたりのツボに入ってしまった。
――どっちが親か判らないってのは、合ってるかもな。
じゃあ、と口を開きかけたところへ、聞き慣れた声が響いた。
「ひろゆきちゃーん!」
赤毛でタレ目で何となく子犬を思い起こさせる顔見知りの娘は、おそらく彼女にできうる全速のダッシュを披露して改札の前に辿り着くと、這々の体でだらしなくオレの右肩にぶら下がった。
「――何してんだ?」
「ちょ……ちょっとゴメ……息が……」
「あっ、あかりさんっ! 大丈夫ですかっ」
平静を装ってはいたものの、駅前に響きわたるその声を聞いた瞬間から、オレは自分でも信じられないほど焦っていた。
最後に顔を合わせてから、かなりになる。その最後というのも、滅多に行かない大学の図書館で鉢合わせただけ。適当な言い訳をして、何か言いたげな顔からきびすを返してしまった、それ以来。
マルチが本当の意味で俺の元に帰ってきて来て――しかもそれは、ちょうど大学の一般教養課程が終わって同じ授業がなくなったのと時期が重なっていて、――あかりとはかなりぎくしゃくした状態になっていた。
もちろん、学部は違ってもキャンパスに至る道筋は同じ。それこそ高校の時みたいに『手を取り合って』通うことだってできた。
そして多分、あかりはそれを望んでいたのだ。
『何か言おう』
そんな気持ちだけがどんどん膨らんでくる。
ゆうべ覚悟を決めたはずだ。今の、正直な気持ちを聞いて貰おうと。
もしそれが望む形じゃなくても、それは仕方のないことだと。
黙ったまま、遠慮がちな……そしてとても傲慢な期待をお互い抱き続けるよりは、と。
あかりが息を整える間に、自分の思い通りにならない顔の筋肉を元に戻そうと悪戦苦闘していたら、ふたつのニヤけた顔が目に入った。
「なんか言いたそうだな」
ふたりとも、苦笑と言うよりは爆笑寸前といった様子だ。
「あら、わかる?」
「わかる、じゃねえ! どんなマヌケ面してるか、ふたりとも鏡見てみろよ」
ふたりとも、あまりに露骨だ。が――
「何いってんのよ。あんたの顔の方がよっぽど可笑しいわよ」
悔しいけど、多分そのとおりだろう。
あかりとマルチがオレの方を見ていないのは、まさに不幸中の幸いだ。
「あーあ、母さんもう満足」
「そうだな。最後にいいものを見せてもらった」
口元の引きつりが取れないまま何も言えないでいるオレをよそに、勝手に復活したあかりは複雑な表情を浮かべているオレを見上げ、慌てて弁解をはじめた。
「ご、ゴメンね。どうしてもおばさんに聞いときたい事があったの」
ペシッ
「あっ」
「用事がないんだったらオレの名前を呼ぶんじゃないっ!」
「だ、だって『おばさーん』じゃ判んない……かな、って」
「言い訳にもなっとらんぞ、コラ」
グリグリグリッ
「ほっ、本気で痛いよ浩之ちゃんっ」
我ながら情けなかった。
言いたいこと――言わなきゃいけないことはたくさんあるはずだった。
なのにオレは、また居心地のいい幼馴染のじゃれあいに逃げている。
せめてもうちょっとマシなシチュエーションだったら……そう思うと、自分にもあかりにも無性に腹が立った。
「浩之、いい加減にしろ」
「そうよ。女の子には手をあげるなってあれほど言ったのに」
ふたりの声でようやく我に返ったオレは、改めて両手の中にあるあかりの顔を見た。
八の字にした眉毛と、うっすらと浮かべた涙がアップになる。
やっぱり照れくさくなって、そのままあかりの身体をお袋の方へ向かせた。
「えーっと……ほら、お袋に用事だろ」
「あ、うん」
くしゃくしゃにされた髪のまま向き直ったあかりの両手を、お袋は『おかわり』のポーズで取った。
「ごめんねあかりちゃん。で、私に何の用だった?」
「はい、あの…ちょっとお料理のことで」
意味不明なりズムであかりの両手を振り回していたお袋の動きが、一瞬止まる。
突然焦点を失ったようにぼんやりとした表情を見て、マルチも怪訝な顔をしている。
「対決か」
「はぁ?」
呟きの意味が捉えきれず、オレは親父を肘で小突いた。
「どーゆーこと」
「おまえも覚悟を決めた方が良さそうだ、ってことさ」
「何だよそれ」
ただ笑いを押し堪えているだけの親父。全く要領を得ないまま、再び女三人の突っ立った場所へと目を向ける。いつのまにか、場は和やかな雰囲気に戻っていた。
「うん……そうね。生姜は入れすぎないように。他はあかりちゃんの言った通りよ」
「じゃあ、今度やってみます」
「きっと上手く行くわ。口に合わないなんて言ったら蹴飛ばしてやんなさい」
先ほどの表情が嘘のように、穏やかな顔がそこにあった。一体何だったんだろうと思っていると、なにやらあかりとマルチに耳打ちしている。
お袋が親指を立てて『ニッ』と笑うと、ふたりの顔が真っ赤に染まった。
「ちっ、まーた何か悪巧みしてやがる」
「女ってのはそういうもんだ。一歩も二歩も、勝手に先回りしてるんだよ」
あれほど醜態を晒しておいきながら、まだ偉そうに物を言う親父にムッときたオレは、もう忘れてもいいかと思っていたネタで突っ込んでやることにした。
「それって『経験者は語る』ってヤツか?」
とてつもなくイヤそうな顔でこちらを見た親父は、しかしまたすぐにニヤケ笑いを取り戻した。
「渦中の人には同情してやるよ」
思い切り背中を叩かれて、今度はオレがイヤな顔をする番だった。
*
「じゃあ、お気をつけて」
にこやかに笑うあかりとマルチ、ややブスリとしたオレを外に残して、ふたりは改札をくぐっていった。
最後まで、含みのある笑い顔をオレに向けたまま。
笑いに誤魔化されて言えずじまいだったこと。
幾つかを残したままで、ふたりは行ってしまう。
そんなに遠い場所じゃない。最近は特急も本数が増えたし、行楽気分なら日帰りだって苦にならない距離のはずだ。
別に電話だって ――
また今度さ。
これでおしまいってわけでもない。
いつものことじゃないか。
「また」
声をかけるでもなく、ただ改札の向こう側を見つめるオレの後ろで呟きが漏れた。
「また、すぐに戻って来るんだよね」
振り向いたオレはどんな顔をしていたのだろうか。誰よりオレを知っているはずのあかりが訝るぐらいだから、よほど珍しい表情だったんだろう。
「オヤジッ!」
反対側のホームに繋がる階段を上りかけていたふたりが、こちらを向く。
改札付近にいた乗降客と職員、全員の視線を集めてしまったことを後悔しつつ、どうしても伝えておきたかった一言を投げかける。
「写真、送るから――オレたちの」
親父はそれでわかったんだと思う。片手をあげて応じただけだったけれど。
それよりも、親父の背中を叩きながら階段を上っていくお袋の、妙に嬉しそうな後ろ姿がいつまでも印象に残った。