水際の泡沫たち その7

「カナコさ~ん、これホントに今週中ですか」

 部下の男の子が情けない声を上げている。

「今までずいぶん引っ張ってきたんでしょ、観念なさい。それに、来週になったらそれどころじゃないかも知れないよ」
「それどこじゃないって、何かあるんすか」

 わたしは前半部分を気にして欲しいんだけどね。

「何かあるかも、ってことよ。いつまでも居ると思うな優しい先輩、ってね」
「やさしいって……えーっと、だれのことでしょう」

 きょろきょろと周りを見渡す彼の周囲で失笑が湧く。
 この子も好きなことだけやらせておけば優秀なんだけどな。もうちょっと頑張ったら自分で仕事も選べるようになるのに。
 でもまあ、その分下の人間が苦労するのはいっしょか。わたしにとっての君たちがそうであるように。

「まだ優しさが足りなかったかしら」

 にっこりと笑顔、でもドスを利かした声で。
 学生時代のヴォーカルトレーニングの成果は、意外なところで発揮されている。

「いっ……いえ、満足です! 今週中っすね、絶対仕上げます!」
「頑張ってね」




 準備はしていた。
 でも、自分自身に降りかかってくるとは思ってなかった。

「いい職場だったよねえ、ホントに」

 さすがに食欲もなく、朝食代わりのホットミルクを流し込む。まだ出社には早いが、この体調で満員電車に乗るのは限りなく自殺行為に近い。ちょっと早めに出社することにした。
 朝練だろうか、スポーツバッグを背負った学生服に追い抜かれながら、ゆっくりと駅に向かう。頭の中は未だに状況把握ができていないままで、イライラを助長していた。

『とにかく、外園部長に会うこと。それから、千絵の情報。辞令が出た今なら、経緯も本音も漏らす人間はいるだろうし。引継期間の間に環境を作っちゃわなきゃ、後でろくな目見ないもんね』

 まとまらない思考のまま、しかし会社には着いてしまう。
 八時前、さすがにオフィスは閑散としている。バインダーやら段ボールやらが山積みされ、すでに作業を行うことの出来る状況にない自分の机を見て、溜息が出た。
 そう言えば、昨日の午前からメールチェックをしていない。今のところ急を要する案件はないはずだが、とりあえず見ておこうか。
 普段は付けたままにしてあったパソコンの電源を、久しぶりに入れる。随分と待たされた後、メールソフトが立ち上がる。
 未読が三通。一通は夕べの飲み会の案内、もう一通は総務が発行しているメールマガジン。

「?」

 三通目、一番新しいメールのアドレスに見覚えがない。


  From: y.hokazono


  ホカゾノ……
  ……外園部長?

  慌ててメールを開く。


 はじめまして。
 この4月よりあなた方の上司となる外園です。

 引継等大変とは思いますが、がんばってください。
 春からは心機一転、新しい職場で共にたのしくやりましょう。

 なお、三月末日までは関連事業部におりますので、
 質問事項等ある場合は遠慮なく会いに来て下さい。
 メールでも結構です。

Yuya Hokazono


p.s.藤村さんへ
 今週中、いつでも良いので一度顔を出して下さい。
 就業時間内はたいてい在席していると思います。


 発信が今朝の六時。しかも社内から。
 さすが変人と呼ばれるだけのことはある。

「善は……急げよね、やっぱ」

 頭痛は引いていた。