「 水際の泡沫たち 」一覧

水際の泡沫たち その8

 いつまでもお若いですね、という表現がある。
 あるいは子供が体だけ大きくなったようだ、とも。
 この場合はどちらが正しいのだろう。

 今、自分の目の前には新しい上司がいる。
 背は一八〇ぐらいだろうか、この歳にしてはかなり大きな方。きっと子供の頃は“総身に知恵が回りかね”などと言われたに違いない。
 四十歳を越えているようには到底見えない。場所を選べば、わたしたちと同世代だと言われても全然疑問に思わないような気がする。

「失礼失礼。フジムラ……カナコさん、だね。はじめまして、外園です」

 そう言って、上司は握手を求めてきた。

「はい。どうぞよろしくお願いします」

 どちらかというとお辞儀の準備をしていたわたしは、わざとまごついた素振りで改めて姿勢を正し、右手を出した。

「どうも日本には握手の習慣が定着していないようだね。大抵の人は私が手を出すと妙な顔をする」

 元プログラマにしては矢鱈と節くれ立った大きな手に振りまわされる。外園部長は両の眉毛を思い切り八の字にして、人懐っこい表情を少しだけ崩した。

『握手がどうのという以前に、部長の迫力に気合い負けしてるんですよ』

 そう言ってみようかと思ったが、どう工夫してもイヤミな台詞になってしまいそうで、止めた。

「スキンシップに弱いんですよ。子供の頃からそういう習慣があまり無いんです」
「残念なことだね。肌を触れあうことでより解り合えることもあるだろうに」

 セクハラスレスレの台詞が、部長の口から出ると全然そういうイメージで聞こえないことにわたしは軽い驚きを覚えた。
 けど、肩に置かれた左手は余分だ。

「しかしメールを出しといて何だが、こんな朝っぱらからやってくるとは思わなかったな。フジムラさんはいつもこんなに早いの」

 先ほどまで読んでいたと思われる本で膝小僧を叩きながら、部長はその人懐っこい目でわたしを見上げた。
 三人掛けのソファを半分占有する体躯に、吊しのスーツが全然似合っていない。そしてその体をさらに大きく見せる長い腕の先には、文庫版の『日本三文オペラ』。
 開高健。悪い趣味じゃないけど、三十年間アメリカで過ごした人間が読む本としては、かなりの異色だ。

「実は挨拶だけです」

 わたしはできるだけ素っ気ない素振りを見せながら、部長の言葉を否定した。

「つまらない形式で大切なお時間を割いていただくのは心苦しいですし、本日はこれで失礼いたします。わたくしの方は残務と申しましても同僚が継続して担当するものばかりで、既に引き継ぎも終わっておりますから、新設部署での業務で準備が必要なものがありましたらメールでお知らせ下さい。できる範囲で対処いたしますので。では」

 ノーブレスで言うだけ言って十五度の礼をすませると、わたしは待機室のドアに手をかけた。

「ハハハハハ……本当に話通りの人なんだな、君は」

 背後で高らかな笑い声が響いた。
 ドアに掛けた手を留め、後ろを振り返る。
 そこには、腹を抱えて笑う「大きな子供」がいた。

 このまま無視して出ていくという手もあったのだが、単純な興味に突き動かされてわたしは開けかけたドアをゆっくりと閉じた。
 極上の笑みを浮かべ、ゆっくりと、そして大きな声で。

「話って、何の話でしょうか」


水際の泡沫たち その7

「カナコさ~ん、これホントに今週中ですか」

 部下の男の子が情けない声を上げている。

「今までずいぶん引っ張ってきたんでしょ、観念なさい。それに、来週になったらそれどころじゃないかも知れないよ」
「それどこじゃないって、何かあるんすか」

 わたしは前半部分を気にして欲しいんだけどね。

「何かあるかも、ってことよ。いつまでも居ると思うな優しい先輩、ってね」
「やさしいって……えーっと、だれのことでしょう」

 きょろきょろと周りを見渡す彼の周囲で失笑が湧く。
 この子も好きなことだけやらせておけば優秀なんだけどな。もうちょっと頑張ったら自分で仕事も選べるようになるのに。
 でもまあ、その分下の人間が苦労するのはいっしょか。わたしにとっての君たちがそうであるように。

「まだ優しさが足りなかったかしら」

 にっこりと笑顔、でもドスを利かした声で。
 学生時代のヴォーカルトレーニングの成果は、意外なところで発揮されている。

「いっ……いえ、満足です! 今週中っすね、絶対仕上げます!」
「頑張ってね」




 準備はしていた。
 でも、自分自身に降りかかってくるとは思ってなかった。

「いい職場だったよねえ、ホントに」

 さすがに食欲もなく、朝食代わりのホットミルクを流し込む。まだ出社には早いが、この体調で満員電車に乗るのは限りなく自殺行為に近い。ちょっと早めに出社することにした。
 朝練だろうか、スポーツバッグを背負った学生服に追い抜かれながら、ゆっくりと駅に向かう。頭の中は未だに状況把握ができていないままで、イライラを助長していた。

『とにかく、外園部長に会うこと。それから、千絵の情報。辞令が出た今なら、経緯も本音も漏らす人間はいるだろうし。引継期間の間に環境を作っちゃわなきゃ、後でろくな目見ないもんね』

 まとまらない思考のまま、しかし会社には着いてしまう。
 八時前、さすがにオフィスは閑散としている。バインダーやら段ボールやらが山積みされ、すでに作業を行うことの出来る状況にない自分の机を見て、溜息が出た。
 そう言えば、昨日の午前からメールチェックをしていない。今のところ急を要する案件はないはずだが、とりあえず見ておこうか。
 普段は付けたままにしてあったパソコンの電源を、久しぶりに入れる。随分と待たされた後、メールソフトが立ち上がる。
 未読が三通。一通は夕べの飲み会の案内、もう一通は総務が発行しているメールマガジン。

「?」

 三通目、一番新しいメールのアドレスに見覚えがない。


  From: y.hokazono


  ホカゾノ……
  ……外園部長?

  慌ててメールを開く。


 はじめまして。
 この4月よりあなた方の上司となる外園です。

 引継等大変とは思いますが、がんばってください。
 春からは心機一転、新しい職場で共にたのしくやりましょう。

 なお、三月末日までは関連事業部におりますので、
 質問事項等ある場合は遠慮なく会いに来て下さい。
 メールでも結構です。

Yuya Hokazono


p.s.藤村さんへ
 今週中、いつでも良いので一度顔を出して下さい。
 就業時間内はたいてい在席していると思います。


 発信が今朝の六時。しかも社内から。
 さすが変人と呼ばれるだけのことはある。

「善は……急げよね、やっぱ」

 頭痛は引いていた。


水際の泡沫たち その6

 顔を寄せ、いかにも内緒の話をしているといった風に千絵は低い声で呟いた。

「はあ? 確か今年度の方針じゃ『大鉈振るう』とか言ってなかったっけ」
「全社的には確かに縮小傾向ね。けど、どうやら会長の肝入りらしいのよ。役員会議でも結構もめたらしいんだけど、どうやら副社長と取り巻きの役員直轄になるらしいわ」

 うーん、この時期にねえ。

「カナコ、海外事業部の外園部長代理って知ってる?」
「うわさだけね。総研から来た人でしょ? かなりの変人だって訊いてるけど」

 確か米国籍でMIT出、社員ごと自分の会社を売り払ってうちに来たという変わり種だ。

「その変人が新規部署の統括部長なんだって。本社に来て早々にこれじゃあ、誰でもあやしいと思うよねえ」
「で、会長派はその部署で何しようっての?」

 正直なところ、上が勝手に何をしてくれようが知ったことではない。
 現在の部署は、自分のやりたいことがやりたいようにできるという意味で、非常に居心地がいいだけでなくキャリアアップにも好都合だった。
 わたしの仕事が移管されたり、障害になったりしないことを確認したいだけなのだ。

「それがねえ……さっぱり」

 千絵はポーチからセーラムとベネトンのライターを取り出すと、忙しげに火を付けた。

「どうにも要領を得ないのよね、誰に訊いても。社長を追い落とすための策略の一環だとか、実は外園さんが会長の隠し子だとか、果ては産業スパイ養成部とかのふざけた話まで。会長肝入りってことで大袈裟になってるけど、噂の大きさの割に情報が少なすぎるのよ」

 千絵もわたしも伊達にお局様をやっているわけではない。当然それなりの人脈と情報網は持っている。千絵は秘書の立場を活かして上層部の情報を中心に、わたしは係長から主任クラスに散らばっている同期と、事務職を含めた後輩の女の子達から社内全般の情報が入手できる立場にある。
 しかし、今回の新設部署の話はその輪郭すら掴むことができない。

「結局、なに? 今回のお話は『新しい部署が出来ます、以上それまで』ってことなの」
「悔しいけどその通り……あ、けどスタートは決まってるみたい。来月中には立ち上がるらしいわよ」

 そりゃまた急な話だ。ますます怪しいわね。

「なるほどね……千絵、ありがと。続編も期待してるわよ」

 そろそろ戻らないと午後イチの打ち合わせに間に合わない。

「今月中にはなんとか実態を掴んでみせるわ。メンツにかけてもね」
 親指を目の前で立ててみせる千絵に『何のメンツだ』とツッコミを入れたくなったが、とりあえず感謝しておくことにした。

 しかし一週間経っても、次の月に入っても情報はまったく代わり映えしなかった。よほど厳しい箝口令が引かれているか、役員の一部にしか実体が知らされていないのだろう。そんな状態で役員会を通ってしまうと言うことだけでも、異常さは十分うかがい知れる。

 結局、待つしかないのか──

 わたしは最悪の事態を想定して内部行程を若干繰り上げておくことにした。もちろん、無謀な辞令にはそのまま従うつもりはないし(それはもちろん何らかの見返りを得ると言うことだ)、実際にそんな状態になったら今やっていることも無駄になる可能性はある。要は仕事に一段落付けておいて高みの見物を決め込もう、と言うだけのことだ。


水際の泡沫たち その5

 一瞬、細波(さざなみ)が立った。おそらく、普通にしていたら見逃す程度の表情の揺れ。千絵はすぐに『ああ、そのこと』と他人事のようにとぼけてみせたが、わたしが目で促しているのに気付くと、ゆっくりと口を開いた。
「おこんないでよ」
 めずらしく、前置きをして千絵がしゃべり出す。

「あんたさ、三品先輩が辞めた後かなり無茶して仕事してたでしょ。まあ、今でもあまりペースは落ちてなさそうだけど」
「そうでもないわよ。最近はそれなりに手を抜くことも覚えたしね」

 半分は本当だ。少なくともイヤな仕事をしないようになった。ただ、これは単純に仕事を選べる立場に来たというだけのこと。仕事の内容については、自分でも“ここまでやる必要はない”というところまで手を入れてしまうことが多い。結局のところ、自分にはそういう進め方しかできないのだとあきらめてからも随分になる。
「まあ、それならいいんだけど。なんていうかさ、周りのみんなが萎縮しちゃわないかと思ってね」
「なんで? 仕事の進め方は個人の裁量だし、わたしは周りの人間にまで自分のやり方を押しつけたりはしてないわよ。……わかんないなあ、それが三品先輩とどう関係あるの」
 ちょっと膜の張りかけているホットミルクを、スプーンでかき混ぜて一気に飲み干した。

 本当はわかってる。
 千絵はしばらく真剣な目でわたしを見ていたが、『うん』と一言呟くと肩をすくめて微笑んだように見えた。
 『自分で判ってるんだったらこれ以上言わない』そう言っているように思えた。
 もちろん、わたしの勝手な思いこみ。でも今はこれでいい。

「じゃあ、そろそろ本題に入りますか」
「え?」

 一瞬何のことか判らず、ポカンと口を半開きにしたわたしを見て千絵が吹き出した。

「クックッ……あんたもねえ、そういう無防備なところを見せてあげれば、みんな安心するのに」
「もう可愛さで売れる歳でもないわよ」

 ぶっきらぼうに応えながらも、ようやく“本日のお題”を思い出した。千絵の立場を最大限に利用して入手した、最新社内情報を提供してもらうことになっていたのだった。

「新規部署が設立されるようね」


水際の泡沫たち その4

 わたしはブーケに手を伸ばさなかった。
 何も言わず視線だけを外さないわたしに、純白のドレスに身を包んだ先輩はちょっと悲しそうな顔をしてこう言った。

『カナちゃん、ゴメンね。後に続くあなた達にわたしは何もできなかった。けど、辛いことがあったら今まで通りに相談に来てほしい。わたしができなかったことじゃなくて、あなたにしかできないことを実現して欲しいから』

 でも結局、先輩とはそれ以後没交渉になってしまった。
 わたしは、立ち止まるのがイヤだった。
 後ろを見るのがイヤだった。
 立ち止まって、廻りを見てみるだなんてまっぴらだった。
 違う価値観を認めることは、自分の存在価値を否定することにしか見えなかった。

 そして、おそらく同期では最も優秀だった三品先輩の退職を皮切りに、女性総合職第一期の先輩達は次々と会社から消えていった。
 仕事もそこそこに、毎日のようにパーティへ出向く人。
 上司に急に愛想が良くなる人。
 暇さえあれば履歴書を書き直している人。
 転職情報誌を常に手放さない人。
 各々が、それぞれの不安を解消する手段を模索していた。

「カナコ、似てきたよね」

 二杯目のアッサムをカップに注ぎながら、千絵が呟く。

「誰によ」

 素っ気ない返事を返すわたしの前では、ホットミルクがかろうじて湯気を立てている。
 最近胃の調子がよくない。定期診断で問題が出るほどの症状ではないが、まず間違いなくストレスによる胃炎だろう。医者に行った方がいいのは判っているのだが、『休みなさい』と言われたときの返答が用意できないまま延ばし延ばしにしてしまっている。体重もベスト時から三キロぐらい減っていた。

「先輩よ、三品さん。あんた入社直後はネコのノミみたいにくっついてたじゃない」

 ずいぶんな言い方をしてくれる。
 でも、千絵との歯に衣を着せない会話は今のわたしにとって貴重な精神安定剤だ。慕ってくれる後輩はいるし、上司の信頼も篤い方だろう。しかし、どちらにも一歩引いたような印象を拭いきれない。野良猫に手を伸ばすような、ややよそよそしい感じがいつもどこかに漂っていた。

 ──泣いてる子供のようにでも見えるのかしらね。

「ネコノミとは何よ。確かに三品先輩からは色々教わったけど、たった二年の間よ。だいたい先輩は二十五で辞めちゃったんだから、そっから先は比較しようがないじゃない」
「まあねー。けどなんていうかさ、やっぱ感じは似てるよ。わたしも結構ファンだったし、それなりに観察した結果としてね」
「わたしを? やあねえ、旦那が泣くわよ」
「おバカ……」

 一息ついて、同時にカップをすする。

 社屋の最上階にあるこのカフェテラスは、基本的に役員および同伴者の利用に限定されている。ただし、秘書課の女子職員に関しては、昼休みに限りフリーパスという粋な計らいがなされていた。
 もちろん通常の客席からは死角になっていて、来客に余計なことを言われないように配慮ずみだ。
 千絵はわたしと逢うとき大抵ここを利用することにしていたので、最近ではわたしも顔馴染みになってしまった。待ち合わせて先に一人で訪れることも何度かに渡っている。

「……それで」
「ん?」
「どこが似てるって」