エッジ・オブ・ヘブン (「To Heart」より)

 初出: “Leaf Visual Novel+ Fun Book” (2000/8/13)


 人の心にずけずけと踏み込んでくる、無遠慮な人間ばかり。
 そんな風評を八割がた真に受けてこの街にやってきてから、三ヶ月。それでも人の噂というものがいかに当てにならないかを思い知らされるには、十分な時間だったと思う。
 言葉も習慣も今までとは全く違うこの街でさえ、他人への不干渉という都会の掟はしっかりと生きている。気安く口さがない会話の端々に感じるのは、レースのカーテンみたいに希薄な現実感。
 それでも、ただ一つだけ──そして圧倒的に違っていたのは、そのカーテンの向こう側にある本音を誰も隠そうとしないこと。

『ホンマに大事なことは余所にとってあんねん。そうやね、もっと仲良うなったら見せたげてもいいけど』

 そんな印象を、会う人すべてから感じていた。
 東京の人間なら、間違いなく本音を隠していることに気付かれないよう振る舞うだろう。なのに、ここの人間たちときたら『なあ聞きたい? 聞きたいやろ?』とでも言わんばかりだ。聞いて欲しいのは間違いなく自分の方だろうに。
「だったら最初から、自分からそう言えばいいのよ。照れ屋の集団ね」
 隣で飲んでいた同じ選択コースの男は、出来損ないのアイドルみたいな笑いを浮べた。

「エッジ・オブ・ヘブン」

 あいつは平然と前提を覆した。

『来栖川って……三年の』
『いや、芹香さんじゃねえ。彼女の妹で、寺女に通ってる綾香ってやつなんだ』
 あかりは顔を伏せている。雅史の視線はもう随分と前からフェンスの外へ向けられていた。視線を水平より上に保っているのは、私とヒロだけ──もっとも、私の視線が上を向いているのは、睨み付けているヒロの顔が自分の目線より上にあるというだけのことだ。

 何かが、なかった。
 ここにいる四人の、お互いを繋いでいた見えない何かが、今はもうなかった。それを私以外の全員がわかっていたことが、なによりも一番許せなかった。
『ふざけんじゃないわ! 他の誰が許しても、この長岡志保が許しやしないわよ!』
『志保、もういいよ』
『何言ってんのよあかり、そんな泥棒猫にでかい顔させちゃダメよ! アンタがどれだけヒロを許してきたか、みんな知ってるんだから!』
『オレがあいつを選んだんだ。責めんのならオレの方じゃねーのか』
『いい根性してんじゃない。それじゃアンタは後で好きなだけ糾弾してあげるわ。けどね、だからってあたしはそんな女を認めやしないわよ』
『何でお前にそこまで言われなきゃいけないんだよ』
『何が一番大事なのかもわかってない大バカには、これでも優しいぐらいだわ!』
『けど、あかりはわかってくれたぜ』

 瞬間、頭が真っ白になる。
 身体が、勝手に後ろを振り返りそうになる。
 奥歯の擦れあう嫌な音が、私の正気をなんとかつなぎ止める。

『あかりが』
 それでも、溢れ出す悔しさと情けなさは止めようがなかった。

『あかりが、他になんて答えられるのよ』
 こいつは何もわかってなかった。あかりの気持ちにも、雅史の気持ちにも、私の気持ちにも気付いてなかった。ただ無責任な優しさを、その時の気分で垂れ流してきただけだったのだ。

『あんた、どういう神経してんのよ! 何年あかりと付き合ってきてんのよ! そんなこと言われて、この子が他にどういう返事をするって言うの!?』
『志保、やめて』
『──あんたもよっ!!』

 四年来の親友に、私は初めて怒鳴った。
 誰かのせいにしなくちゃいけない。こんな事になった犯人を突き止めなきゃいけない。誰も悪くないなんて絶対に言わせない。どこで間違ったのかを見つけなければ、間違いを正してやり直さなければ、何もかもこれでおしまいなのだ。

『言わなきゃ判らないことだってあるのよ! 言わなきゃ無かったことになっちゃう事だってあるのよ! あんたの気持ちを無かったことにできるの? そんなわけないでしょ!?』
『やめてよっ!』

 絶対間違ってる。
 ある日、突然ヒロは振り向くはずだった。目元に涙を浮かべてあかりが応えるはずだった。何事もなかったように次の日を迎えられるはずだった。何があっても、四人の関係は続いて行くはずだった。

 一気に空にしたグラスの縁に、申し訳程度のフルーツがぶら下がっている。その原色が妙に疳に障って、私はグラスを視界から遠ざけた。それを追加の催促と勘違いした隣の男が要らない口を挟む。
「自分、ペース早すぎるわ。口当たりエエからって、飲み過ぎると悪酔いすんで」
 ついさっきまで下心見え見えの口説き文句を弾き出していた口から、妙に腰の引けた台詞がこぼれる。それを何故か可愛く感じて、改めて私は男の顔を見た。
 別にどうということはない、普通の顔だ。専門学校で同じクラスだと説明された今でも、本当にそうなのかどうか思い出せない。間違いなく明日になったら忘れているだろう。
 戦場記者になるのが夢だと言った。足下に置かれたデイパックの中には尊敬する写真家の作品集が常に入っている、とも。
 照れくさそうに笑う表情は、悪くない。

「あら。そろそろ財布の中身が心配かしら」
「バイト代入ったとこ──って俺のおごり!?」
「当然。女の子誘っといて何を今さら」
「……大物やわ、自分」

 夢。
 あいつは、夢を語らない男だった。

『じゃーなりすと』
 その時、彼女はひらがなで喋ったように聞こえた。
『そう。世界を飛び回る超一流のジャーナリスト! 国際派の志保ちゃんには天職だと思わない?』
『うん。志保ならできると思う』
 よく考えた末の賛同でもないのだろう。けれども、不思議なことに彼女が笑ってそう言うと本当にできるような気持ちになれた。
 だから私は、いつもだるそうにしているヒロと、何も考えていないような雅史が県下でもトップクラスの得点力を誇るフォワードだと聞かされたときにだって、特に感慨はなかった。
『あったりまえよね~、あれだけ応援してもらってるんだから、期待に応えなかったら男じゃないわよ』
『……おめーなあ、フィールドにいるときオレらがどれぐらい恥ずかしいかわかってねえだろ』
『結構他の学校にもファンがいるよね、浩之』
 そういう雅史もかなりのものだった。大会はもちろんのこと、非公式の練習試合でも千恵美さんとあかりの声がグランドに響かないことはなかったのだから。
『もう立派なおホモだちね。この際だから、このままワールドカップまでペア組んでなさいな』
 その時のヒロの態度に感じた違和感を、今でも私は言葉にすることができない。何の疑問もなく笑顔を浮かべるあかりと雅史の横で、ヒロの視線は全然違うところに焦点を結んでいた。
 時折見せる、ちょっと得体の知れない危うさ。私はヒロのそんな部分が好きで――雅史や私には見せるその危うさを、あかりにだけは絶対に見せないところが好きで――あいつにつきまとっていたんだと思う。

 夢を語らない男は、なのにとても非常識な世界で生きることを選んだ。

「ホントに大丈夫でしょうね」
「うぃーっす! らくしょー、らくしょー」
 どう見ても大丈夫そうではない返事に少なからぬ不安を感じるものの、そもそも面倒を見る立場でもない。財布の中の学生証と一万円札を確認して、私は人畜無害を絵に描いたような酔っぱらいをタクシーに蹴り込んだ。
 体力も気力も使い果たした私は、カップルやホームレスに占有されていないベンチを探してまわりを見回した。途切れることなく続くタクシーのテールランプが視界一杯に広がる。やがてそれは、視界の左端からゆっくりと万華鏡のように波をうちはじめた。
「やば……」
 こめかみを強く押す。息を詰め、頭に血を巡らせる。七色の光が、僅かに視界から遠ざかった。偏頭痛持ちだった母親から教わった、数少ない生活の知恵だ。
「これじゃ、帰れないわねえ」
 吐き気はおさまったが、どこまでいっても応急処置である。三十分以上終電に揺られて立っていられる自信は全然無かった。
 手近のごみ箱にもたれる。オレンジの光に犯され、紺色になりきれない空を見上げる。ねっとりと重い、夏の夜の空気が肌にまとわりつく。

「…… しかたない、か」

 番号は、指が覚えていた。

『志保』
 怒りと、それ以上の情けなさに震えが止まらない私の肩を、何か大きなものが包んだ。
『……雅史?』
『もう、いいよ。君が痛い思いすることなんかない』
 一瞬だけ、息が止まった。
 後ろから抱きすくめられて身動きのとれなくなった私は、突如として発生した疑問に頭のほとんどを埋め尽くされながら、あかりを見た。
『志保、私のことは……もういいの』
 そんな瞳で見ないでよ。
 そんな顔されたら、女だって堪んないのよ。
『それにね、志保だって浩之ちゃんのこと、責められないんだよ』
 思いがけないあかりの反撃に、私は大きく混乱する。
『ちょ──ちょっと、どういうコト!? あたしが何したって言うのよ。ヒロがあんたを裏切るぐらい許されないことを、あたしがしたって言うの?』
 あかりは返事を返さず、ただ視線の向きを変えた。私の、頭の上に。
『なっ』
 突然、肩に回されていた両腕が離れた。
 私は弾かれたように飛び退くと、目を閉じて両手を上に上げている雅史の表情を改めて見つめた。
『冗談……でしょ……』
『ひどいこと言うね』
『だってあんた ──』
 あかりをずっと思ってきたんじゃなかったの?
 だからふたりで見守って来れたんじゃないの?
 あたしとあんたは、一緒だったんじゃないの?
『雅史ちゃんは、ずっと志保のことを考えてたよ』
 この子は、自分が悲しい時よりも、こうして人のことを話している時のほうがもっと悲しそうな顔をする。
 だから、そんなあかりがヒロを想うのなら、あたしは友達で我慢できるはずだ。そう思って今までやってきたのに。
『だったら何だってのよ!』
 全部、嘘だったんだ。
『あたしにはあかりが好きだって言っといて、当のあかりには全然違うこと言って』
 みんなで、私を騙してたんだ。

『信じらんないわ、よくもそんな平気な顔して!!』

 なによ。
 みーんな嘘つきだったのね。
 私ひとりだけマジになって、バカみたいじゃん。

 なに笑ってんのよ、ヒロ。
 誰よその女は。
 ふーん……そいつが例の泥棒ネコなのね。

 やめときなさいよ、ヒロ。
 そんな女、あんたには似合わない。
 絶対あかりの方がいいって。

 そんな女と笑わないでよ。
 あかり以外にそんな顔で笑いかけないでよ。
 そんなこと許されるわけないでしょ。

 あかりとなら。
 私じゃなくても、あかりとなら。
 みんな幸せになれたはずなのに。

 まだ私は、ふたりが結ばれるのを願っている。今でも、四人の関係を取り戻したいと思っている。
 二度と取り戻せるはずもないのに。全部嘘だったとわかっているのに。そんなもの最初からどこにもなかった──そう、はっきり言われたはずなのに。

「シホ」
 頬を伝った涙は、いつのまにか乾いていた。
「シホ、しゃんとして」
 目の前にある顔が誰のものなのか、どうしても思い出せない。
「あんたなあ……シンドイんやったら、そない言わんとあかんよ」
「お、長岡復活?」
 少し離れたところから、間延びした声が響いた。
 静かだ。
 静かなのに、床が揺れてる。
 そういえば前に聞いた。上のカラオケボックスで暴れる馬鹿がいるから少々響くかも知れない、とか。
 あれは誰に聞いたんだっけ。確か、その店でホール係のバイトをしていた――
「リカコ」
「はいはい、ここにおるよ」
 思い出した。
 リカコとタカシ。英会話教室で一緒のクラスの女の子と、その彼氏。
 こっちに来てからの、数少ない友人だ。
「なんでリカコがいるの」
「……いっぺんコンクリ抱かせて南港に沈めんとあかんな、あんただけは」
 そう。
 そうだ。
 ここは大阪だった。
「あんたが呼び出したんやないの。バイト無いのに、わざわざ神戸から高速とばして来てんで」
「うそうそ、こいつはナビに座っとっただけ」
 ビートマニアの画面に視線を固定したまま、タカシが突っ込む。
 VIP待遇というわけではないが、店長にいたく気に入られているリカコは、店の一番奥にある個室を好きに使っていいと言われている。常連にも知る人の少ないその部屋は、リカコの恋人であるタカシと、なぜかこれも一発で店長に気に入られてしまった私の三人にとって非常に居心地の良い空間である。
「せやから最初に言うてん。タカだけ行けば、って」
「アホ、何が悲しゅうて夜中一人で酔っぱらい迎えに来んとあかんねん」
 徐々に記憶が鮮明になってくる。リカコの携帯にヘルプを入れた後、私は這々の体でこの店に辿り着いたのだった。
 すぐにでも個室に直行して横になりたかったのだが、他の常連に見つかったのが運の尽きだった。遊ぶことに命を懸けている彼らに『飲み過ぎた』などという甘えは通用しない。しかもこんな時に限って唯一の善人である店長がいなかったりする。
 最終的にどういう状況でこの部屋に担ぎ込まれたのかは覚えていないが、これまでの経験からすると聞かない方が良さそうだ。
「そんな強いわけでもないのに……つきあい良すぎやわ、あんた」
 おでこのあたりに冷たいかたまりが乗った。
「さんきゅ」
 目を閉じたまま、ボルヴィックのボトルを一気に空ける。引き締まる感触は喉元までしか伝わらない。
「車に乗れるぐらい復活したら、帰ろか」
「相変わらず面倒見ええなあ、リカママは」
 同じぐらい面倒見のいいことで有名なタカシが他人事のように笑う。いつもこんな感じで、ふたりには迷惑掛け通しだ。
 いつからか、感じていた。私は、あのふたりにもこういう関係を求めていたんじゃないだろうか──と。

『…… よねー。ところでさ、志保はどうするの』
『えっ──あ、あたしは今回一点狙いなのよ』
『うそ、あんたが!?』
『ちょっと志保、まさかあの噂ってマジ』
『しーっ、男子が来たっ!』
 相変わらず悪いタイミングで現れるやつだ。時々、わざとやってるんじゃないかと思うこともある。
『いつも騒がしいな、おまえの周りは』
『うっさいわね。今日あたり一人でウロウロしてる男はみっともないわよ』
『はいはい、せいぜい盛り上がってくれ。ところでそこの女子連中』
 普段から“感じ悪い”とか“ちょっと苦手”などとヒロを避けているような子たちだ。十把一絡げにされても仕方ない。
『なによ』
『いっとくけど、藤田君のチョコは無いからね』
『バーカ、いらねーって。それより雅史ならさっき出てったぞ』
『えーっ!?』
『ウソっ! 気がつかなかった』
 叫ぶが早いか、みんなはギャラリーで一杯になっているはずのグランドへ向けてダッシュしていった。

『そっか、長岡には関係ねぇか』
『えっ?』
 頭に響くかしましい声が去って、気付かない内にボーッとしてたらしい。
『雅史さ。どーせ一緒に帰るんだろ』
『やめてよ、あんたまでつまんない噂信じてんの?』
 あかりとヒロがよりを戻したという話は、大した感動もなく事実として学年中に受け入れられた。至って暢気な本人たちはともかく、ふたりが付き合っているという客観的事実は広く知られていたから、元の鞘に戻ったぐらいでは誰も驚かない。
 ただ、部活をやめたヒロはあかりと一緒に帰ることが多くなって、今度はあぶれた私と雅史が話のネタにされているらしいのだ。
『意外と似合ってんじゃねえか』
 事情はすべて御存知よ、とでも言いたげな表情でヒロが笑う。

 私と雅史が、何を話しているのか。もしこの場でふたりの本音をぶちまけたら、最悪に鈍感なこの男はいったいどんな表情を浮かべるだろう。

 破滅的な思考を何とか振り払い、私はいつもの志保ちゃんポーズを取る。
『どうかしらねぇ。あんたと違って佐藤クンは将来有望だから、押さえといてもいいかもね』
『かあ~っ、長岡ごときに押さえとまで言われるとは……哀れ雅史よ』
『押さえにすらならない男が何いってんのよ』
『ほんっと、おめーって遠慮ねえな』
『遠慮しなくていい、ってあかりにも言われたしね』
『ったくよお……あいつもなあ』
 いないときでも、あかりを間に挟んでしまう。それは、あたしなりの友情の表現だったのだ。

「ヒロって、向こうの彼氏?」
 タカシの車は尋常でなく狭い。だから助手席を目一杯後ろに倒すと、ドライバーズシートの後ろに縮こまっているリカコの顔が真横に迫る。
 黙ったまま身体を右に捻ると、リカコの大きくて真ん丸い目がすぐ正面にあった。人に色々言っておきながら付き合いで飲んだのだろう、目の回りに少し赤い色が差している。
「……違うわ」
 目線を元に戻そうとしたが、リカコは両手で私のほっぺたを押さえて動かさない。
「コラ。お姉さんに隠し事したらあかん」
「どうせ数ヶ月のことでしょっ。だいたいそもそも、何でリカコがそんな名前知ってんのよ」
「寝言で呼ぶほど愛しい彼なんやろ? ホレホレ、観念して白状する」
「突然オッサン入んないでよ! だから違うっていってるじゃない」
「そっかー。ほんなら……昔の彼氏とか片思いの人とかのパターンか?」
「長岡が大人しく片思いに甘んじるとは到底思えんのですが、その辺どないでしょうかリカコさん」
 前を向いたまま話に割り込んできたタカシを、リカコはすげなく切り捨てる。
「あんたは黙って運転しとき。女同士の話に首突っ込むんやない」
「やったらそんな話、わざわざここでせんでもええのに……」
「聞こえん振りしとくんがええ男ってもんよ」
 無茶苦茶な言い分に呆れながらも、どうしてか私はこのまま話を続けたい気分だった。
 酔いのせいかもしれない。どうせ寝言で聞かれているなら、と自棄になっていたのかもしれない。あるいは、みんなの自爆体質が感染してしまったのかも知れない。
「人には言えぬ悲しい恋の物語でございますわよ」
 なーにが、と笑うはずのリカコの目に、瞬間異質なものが混じった。

「あかりちゃんの彼氏が、ヒロ君なんか?」
「……」
「みんな仲良うしとったけど、そのふたりがくっついてしもて」
「……」
「ビンゴか」

 リカコの顔がゆっくりと近づく。綺麗な形の眉毛を眺めていたら、おでこ同士がこつん、と当たった。

「なんでみんな、上手いこと行かんのかなあ」
 耳元で囁くリカコの息が、うなじをくすぐる。
「彼氏ができても、友達減るんやったら割合わんよ。そんなことになるんやったら、うちは彼氏なんかおらんでもよかった」
 聞こえているのかも知れないけど、タカシは黙ったまま前を向いている。私もリカコの話の腰を折って『あんたとは違う』と言い出す気にはなれなかった。
「まだ、笑って会われへん──目線が逃げんねん。泣けるでー、あれは」

 私ならどうだったんだろう。ヒロとあかりがちゃんと結ばれたなら。
 笑えたはずだ。心の底からじゃなかったとしても。たとえヒロのことが本当に好きだったとしても。きっとふたりを祝福できたはずだ。

「別に内緒にしとったんと違う。地震のせいで遠くに行かなあかんかったりとか、色々あったんは確かやけど……そんなん関係ないやんなぁ」

 ヒロに向けられるあかりの視線を、そばで感じているだけで暖かい気持ちになれた。あかりに向けられたヒロの柔らかい視線に見とれていた。私は、あのふたりの作る世界が本当に好きだった。

「はじめは何で怒ってんのか分からんかった。トモはタカのこと好きやったんかと思った。違っててんな。ちゃんと話してたら──『うち、タカと付き合うことにした』ってちゃんと言うてたら済む話やってん」

 そうだ。私はふたりの優しさを分けてもらっていたんだ。見守っていたなんて偉そうなこと言っていたけれど、本当は気持ちよさそうにひなたぼっこをしているところへ混ぜて欲しかっただけなんだ。

「壊れんのはホンマに簡単やって、それだけは身にしみとったはずやのに……」

 ふたつの筋が私の頬を伝い、やがて重なった。
 涙の意味は違うはずなのに、その温度は同じだった。

「いーや、絶対何かの間違いやって。話うますぎや」
 この期に及んでまだぶつくさ文句を付ける女がいる。
「あーら、ジツリキよ。ジ・ツ・リ・キ」
「日本語もまともに喋られへんようなヤツを輸出してええはずがないっ!!」
 向かいの席では、リカコとタカシが懸命に笑いをこらえている。

 薄ぼんやりとした記憶を反芻し、短絡的な連想を繰り返した結果は見事に当を得た。故郷に帰り、リカコやタカシと同じ大学に通っていた保科智子と世間の狭さを確かめ合ったのは、あれから数週間後のことだ。
 そして今、私たちは空港に向かう列車の中にいる。壊れた物は決して元には戻らないけれど、また違った形を作ることもできる。四人で過ごした時間は、そんなことを私に教えてくれたような気がする。
「確かに非現実的な話ではあるなあ」
「思うやろ? これは絶対裏があるって。志保、悪いこと言わんから止めとき」

 専門学校の二年に上がる直前。並行して通っていた英会話学校の担任をしていたジム──観光に来たつもりの日本が気に入ってしまい、ポストドックという立場を利用してそのまま居着いてしまった変わり種──が突然帰国することになった。カリフォルニアにあるその大学から“いい加減研究成果を報告しろ”との要請が出たらしい。
 件の個室に彼を招き、お別れ会と称して飲んでいる最中、突然その話は浮上した。

『来いって……アメリカ?』
『どうでしょう。バイタリティ溢れるシホなら、十分にやっていけると思いますが』
『ジム、日本ではそれを“買い被り”って言うんよ。覚えておこうな』
『いえいえ。シホが本気でジャーナリストを目指して頑張るつもりがあるなら、やはり海外に出るのが得策でしょう。シホの視点はとても面白いし、それは教室で話しているときも感じました』

 ロサンゼルスの新聞社と契約しているジムの友人が、丸一年にわたる長期出張取材の企画をデスクに認めさせたという。しかしアシスタントが確保できない。慢性的に人手と取材費の不足に悩まされている彼が、メールでジムに不平をこぼしたのがきっかけだった。
『好奇心とガッツがあるなら面白いことになるかも知れない。こっちもフリーランサーだから大した給料は出せないが、ジムが連れてきてくれるなら会って話してもいい』
 まだまだ勉強不足なのは自分が一番よく知っている。けれど、これを逃せばきっと次はない。親の承諾なんて受けるつもりもなかった。

「ま、遊びに来るなら連絡しなさいな。忙しくて相手できないかも知れないけどね~」
「強制送還されんように気ぃつけや」

 憎まれ口を叩く智子の目尻は、それでも普段よりかなり下の方にあるように見える。ほどいた髪のせいか、クレーンゲームの筐体を蹴り上げる凶暴さはなりを潜め、車窓をバックにした穏やかな空気は時間の流れをとても緩やかに感じさせている。
 私はしばらく、その表情に見とれることにした。

『なんでタカの周りにばっか美人が集まるかね』
『そら日頃の──うわ、むっちゃ濃い!! マスター、僕クルマや言うてますやん』
『心配せんでも彼女らはわしが送ったる』
『ええなそれ。よし、今日はみんなでタカ潰そう』
『あっ、アホ!! 何混ぜてんねん!?』

 カウンターでは、タカシが店長と常連に虐められている。両手に余る花を抱えているのだから、それぐらいは店に入る前に覚悟しておくべきだろう。

『うちなあ』
 リカコはタカシ潰しに参加してしまい、ボックス席には智子と私のふたりが取り残された。
『自分一人やとな、何もでけへん子やってん』
 高校時代の彼女からは到底想像の付かない告白にも、もう私は驚かなかった。この数ヶ月を四人で一緒に遊んできて、彼女の本来の姿を垣間見ることができたせいだろうと思う。
『自分が無い子、言うのんかな。仲良しグループに紛れ込むんは上手やってんけど』
 照れくさそうに笑う彼女の周囲に、かつてのような張りつめた空気はない。
『あんたが──いや、あんたらが羨ましかった』
『智子……』
『いろいろあったっていうのは、神岸さんからちょこっと聞いた。けど、あんたは彼女と違うんやろ?』
 何がどう、と聞こうとして止めた。
 あらゆる意味で違っていた。あかりと私の立場は、当事者と傍観者という言葉以上に違っていた。なのに私はそれを混同したまま、ふたりに──いや、三人に当たり散らしただけだった。四人の関係の修復を拒否したのは他ならぬ私自身だった。
『所詮は他人や。我慢できんのに許してやることなんかないと思うよ。けど、それで自分がいつまでも痛がっとったらアホみたいやもんな』

 ようやく、少しだけわかるようになってきたような気がする。彼らが自分のことを──殊更、自分の失敗を──ひけらかすのは、一緒に笑って忘れようという精一杯のメッセージなのだろう。
『嫌いにはなられへんのやろ』
『そうね。無理みたい』
『うちもそうやったよ。そやから止めてん。好きなの我慢するやなんて、一人だけ損しとうみたいでイヤや』
『それもちょっと違うような気がするけど』
『ええの。そんなもんよ、きっと』

「大阪発、天使の街…… か」

 私にもいつか、彼女のように全部許せる日が来るだろうか。他人の幸せを分けてもらうだけじゃなく、もっと大きな幸せをいっしょに作っていけるようになるのだろうか。

 今はまだできそうにない。私はまだ、あかりを選ばなかったヒロを許していない。ヒロを許したあかりを許していない。私を騙した雅史を許していない。そして何よりも、自分を偽っていた私自身を許せない。たくさんの優しい嘘の中にある、本当の気持ちに気づかないまま過ぎていった日々は、まだ昨日のことのように思い出せる。
 けれど、最後の最後で四人は正直だったと思いたい。それだけで私は救われる。いつか祝福できるようになりたいと思う自分を否定しないでいられる。いつのことになるかわからないけれど、そんな日が来ればいいと思っている。

「戻って、くるわよ」

 その時、許してあげよう。
 天国の片隅に黙って私を住まわせてくれた彼らを。
 あの日、許せなかった自分と一緒に許してあげよう。

 遠い街で、私も天使になれたなら――
 それももう、遠い日のことではないような気がした。

〔おわり〕

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