文字と文章(と会話)。

 inside outvoid GraphicWizardsLair( void ); //港区赤坂四畳半社長
 僕はコンピュータで全角括弧の【“ ”】を縦書き表示にしたときダブルミニュート【〝 〟】(チョンチョン、ノノカギ)で表示しないフォントなんて絶対に欠陥商品だと今でも思っているし、そのくせ一太郎5でワードラップとジャスティフィーション機能が実装されたときは諸手を挙げて迎え入れたりした、まあ何でもアリの人だ。
 でもやっぱりベースにあるのは「日本語で書かれた縦書きの書籍」だし、大きく影響を受けているのは数を書いてきた「公文書ベースの行政向け報告書文体」なんだろうと思う。
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SNSとかBlogとか、その程度の長さの単語なら、半角より全角の方が文章がまとまって見えたりするから不思議なんだよね。横書き文化と日本の全角文字文化が融合した文章造形美っていうのかな。自分も紙媒体にものを書くときに、たまに全角英数を使うように意識することがあるので、この記事の大半は理解できませんでしたが、興味深く読ませていただきました。

 という記述を見つけたんだけど、感覚としてはこれが一番近いのかな。単発の英数は全角にしたいし、横文字が並び過ぎるとそれにばかり読者の目が奪われてしまって自分の伝えたい内容が読み取りづらくなるんじゃないか、とまで思うこともある。
 ひらばやしさんの表記に対する気遣いも(ウェブページでの実装として)かなり近いかと思ったけれど、

日本語内の”()” → 全角は使わない
 ”()”を使うと、間隔が広すぎて読みにくい。

 これだけ逆かも。
 括弧書きの中身は地の文を補う(括弧書きの中身を飛ばして読んでも意味が通じる)ものであるべきだと常々意識はしているけれど、実際には地の文よりも衆目を集めたいがために仕込まれたネタだったりすることが多い。そんなときはむしろ半角だと間隔が狭すぎて窮屈に思える。
 そういえば小学校の頃センセやオカンに言われたな。
「アンタの書く文章は括弧の使い方が変だ」
「だがそれがいい(恣意訳)」
 いま上に書いたような意識を持って文章を書こうとしているのは、逆にそれがトラウマにもなっているんだろう。なんてこったい。

 そういえばひらばやしさんの咀嚼する会話(勝手意訳)は前に見たときも色々思ったけど言葉にならなくて反応できないままだった。
 若い女性に限らず、そういうのを楽しいと思える相手自体がとても貴重な財産なんじゃなかろうか。それができている時点で「意気投合」できているんだろうし、もう強敵と書いて友と読めそうだ。
 懸案に関して十分な理解があり、共通認識として必要なアウトプットが想定されていて、「確認を伴い」つつ会話を前に進めるための内容を返球に盛り込んでいくステキな会話ができる相手はやっぱり「同じ畑の中にいる」人に限定されてしまいそうだ。
 異業種異職種異職階(異性)はそのほとんどが「相手の技術(好意)を当てに」するけれど、その深さ(想いの丈)を確認し合おうという相手とはなかなか出会えそうにない。
 えーっと、つまり。なんだ。
 ひらばやしさんはとても情熱的な男性である、という結論がオチか。
 やっぱ咀嚼しきれてないわ(つД`)