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水際の泡沫たち その6

 顔を寄せ、いかにも内緒の話をしているといった風に千絵は低い声で呟いた。

「はあ? 確か今年度の方針じゃ『大鉈振るう』とか言ってなかったっけ」
「全社的には確かに縮小傾向ね。けど、どうやら会長の肝入りらしいのよ。役員会議でも結構もめたらしいんだけど、どうやら副社長と取り巻きの役員直轄になるらしいわ」

 うーん、この時期にねえ。

「カナコ、海外事業部の外園部長代理って知ってる?」
「うわさだけね。総研から来た人でしょ? かなりの変人だって訊いてるけど」

 確か米国籍でMIT出、社員ごと自分の会社を売り払ってうちに来たという変わり種だ。

「その変人が新規部署の統括部長なんだって。本社に来て早々にこれじゃあ、誰でもあやしいと思うよねえ」
「で、会長派はその部署で何しようっての?」

 正直なところ、上が勝手に何をしてくれようが知ったことではない。
 現在の部署は、自分のやりたいことがやりたいようにできるという意味で、非常に居心地がいいだけでなくキャリアアップにも好都合だった。
 わたしの仕事が移管されたり、障害になったりしないことを確認したいだけなのだ。

「それがねえ……さっぱり」

 千絵はポーチからセーラムとベネトンのライターを取り出すと、忙しげに火を付けた。

「どうにも要領を得ないのよね、誰に訊いても。社長を追い落とすための策略の一環だとか、実は外園さんが会長の隠し子だとか、果ては産業スパイ養成部とかのふざけた話まで。会長肝入りってことで大袈裟になってるけど、噂の大きさの割に情報が少なすぎるのよ」

 千絵もわたしも伊達にお局様をやっているわけではない。当然それなりの人脈と情報網は持っている。千絵は秘書の立場を活かして上層部の情報を中心に、わたしは係長から主任クラスに散らばっている同期と、事務職を含めた後輩の女の子達から社内全般の情報が入手できる立場にある。
 しかし、今回の新設部署の話はその輪郭すら掴むことができない。

「結局、なに? 今回のお話は『新しい部署が出来ます、以上それまで』ってことなの」
「悔しいけどその通り……あ、けどスタートは決まってるみたい。来月中には立ち上がるらしいわよ」

 そりゃまた急な話だ。ますます怪しいわね。

「なるほどね……千絵、ありがと。続編も期待してるわよ」

 そろそろ戻らないと午後イチの打ち合わせに間に合わない。

「今月中にはなんとか実態を掴んでみせるわ。メンツにかけてもね」
 親指を目の前で立ててみせる千絵に『何のメンツだ』とツッコミを入れたくなったが、とりあえず感謝しておくことにした。

 しかし一週間経っても、次の月に入っても情報はまったく代わり映えしなかった。よほど厳しい箝口令が引かれているか、役員の一部にしか実体が知らされていないのだろう。そんな状態で役員会を通ってしまうと言うことだけでも、異常さは十分うかがい知れる。

 結局、待つしかないのか──

 わたしは最悪の事態を想定して内部行程を若干繰り上げておくことにした。もちろん、無謀な辞令にはそのまま従うつもりはないし(それはもちろん何らかの見返りを得ると言うことだ)、実際にそんな状態になったら今やっていることも無駄になる可能性はある。要は仕事に一段落付けておいて高みの見物を決め込もう、と言うだけのことだ。


水際の泡沫たち その5

 一瞬、細波(さざなみ)が立った。おそらく、普通にしていたら見逃す程度の表情の揺れ。千絵はすぐに『ああ、そのこと』と他人事のようにとぼけてみせたが、わたしが目で促しているのに気付くと、ゆっくりと口を開いた。
「おこんないでよ」
 めずらしく、前置きをして千絵がしゃべり出す。

「あんたさ、三品先輩が辞めた後かなり無茶して仕事してたでしょ。まあ、今でもあまりペースは落ちてなさそうだけど」
「そうでもないわよ。最近はそれなりに手を抜くことも覚えたしね」

 半分は本当だ。少なくともイヤな仕事をしないようになった。ただ、これは単純に仕事を選べる立場に来たというだけのこと。仕事の内容については、自分でも“ここまでやる必要はない”というところまで手を入れてしまうことが多い。結局のところ、自分にはそういう進め方しかできないのだとあきらめてからも随分になる。
「まあ、それならいいんだけど。なんていうかさ、周りのみんなが萎縮しちゃわないかと思ってね」
「なんで? 仕事の進め方は個人の裁量だし、わたしは周りの人間にまで自分のやり方を押しつけたりはしてないわよ。……わかんないなあ、それが三品先輩とどう関係あるの」
 ちょっと膜の張りかけているホットミルクを、スプーンでかき混ぜて一気に飲み干した。

 本当はわかってる。
 千絵はしばらく真剣な目でわたしを見ていたが、『うん』と一言呟くと肩をすくめて微笑んだように見えた。
 『自分で判ってるんだったらこれ以上言わない』そう言っているように思えた。
 もちろん、わたしの勝手な思いこみ。でも今はこれでいい。

「じゃあ、そろそろ本題に入りますか」
「え?」

 一瞬何のことか判らず、ポカンと口を半開きにしたわたしを見て千絵が吹き出した。

「クックッ……あんたもねえ、そういう無防備なところを見せてあげれば、みんな安心するのに」
「もう可愛さで売れる歳でもないわよ」

 ぶっきらぼうに応えながらも、ようやく“本日のお題”を思い出した。千絵の立場を最大限に利用して入手した、最新社内情報を提供してもらうことになっていたのだった。

「新規部署が設立されるようね」


水際の泡沫たち その4

 わたしはブーケに手を伸ばさなかった。
 何も言わず視線だけを外さないわたしに、純白のドレスに身を包んだ先輩はちょっと悲しそうな顔をしてこう言った。

『カナちゃん、ゴメンね。後に続くあなた達にわたしは何もできなかった。けど、辛いことがあったら今まで通りに相談に来てほしい。わたしができなかったことじゃなくて、あなたにしかできないことを実現して欲しいから』

 でも結局、先輩とはそれ以後没交渉になってしまった。
 わたしは、立ち止まるのがイヤだった。
 後ろを見るのがイヤだった。
 立ち止まって、廻りを見てみるだなんてまっぴらだった。
 違う価値観を認めることは、自分の存在価値を否定することにしか見えなかった。

 そして、おそらく同期では最も優秀だった三品先輩の退職を皮切りに、女性総合職第一期の先輩達は次々と会社から消えていった。
 仕事もそこそこに、毎日のようにパーティへ出向く人。
 上司に急に愛想が良くなる人。
 暇さえあれば履歴書を書き直している人。
 転職情報誌を常に手放さない人。
 各々が、それぞれの不安を解消する手段を模索していた。

「カナコ、似てきたよね」

 二杯目のアッサムをカップに注ぎながら、千絵が呟く。

「誰によ」

 素っ気ない返事を返すわたしの前では、ホットミルクがかろうじて湯気を立てている。
 最近胃の調子がよくない。定期診断で問題が出るほどの症状ではないが、まず間違いなくストレスによる胃炎だろう。医者に行った方がいいのは判っているのだが、『休みなさい』と言われたときの返答が用意できないまま延ばし延ばしにしてしまっている。体重もベスト時から三キロぐらい減っていた。

「先輩よ、三品さん。あんた入社直後はネコのノミみたいにくっついてたじゃない」

 ずいぶんな言い方をしてくれる。
 でも、千絵との歯に衣を着せない会話は今のわたしにとって貴重な精神安定剤だ。慕ってくれる後輩はいるし、上司の信頼も篤い方だろう。しかし、どちらにも一歩引いたような印象を拭いきれない。野良猫に手を伸ばすような、ややよそよそしい感じがいつもどこかに漂っていた。

 ──泣いてる子供のようにでも見えるのかしらね。

「ネコノミとは何よ。確かに三品先輩からは色々教わったけど、たった二年の間よ。だいたい先輩は二十五で辞めちゃったんだから、そっから先は比較しようがないじゃない」
「まあねー。けどなんていうかさ、やっぱ感じは似てるよ。わたしも結構ファンだったし、それなりに観察した結果としてね」
「わたしを? やあねえ、旦那が泣くわよ」
「おバカ……」

 一息ついて、同時にカップをすする。

 社屋の最上階にあるこのカフェテラスは、基本的に役員および同伴者の利用に限定されている。ただし、秘書課の女子職員に関しては、昼休みに限りフリーパスという粋な計らいがなされていた。
 もちろん通常の客席からは死角になっていて、来客に余計なことを言われないように配慮ずみだ。
 千絵はわたしと逢うとき大抵ここを利用することにしていたので、最近ではわたしも顔馴染みになってしまった。待ち合わせて先に一人で訪れることも何度かに渡っている。

「……それで」
「ん?」
「どこが似てるって」


水際の泡沫たち その3

『絶対おかしいですよ! 金谷さんや、日下部さんだって……先輩の半分も実績上げてないじゃないですか! あの人達が主任になって、先輩がなれないなんて誰が見たって変です!』

 三品亮子は大学の二年先輩だった。
 サークルでよく構ってもらったこともあり、卒論で手一杯だった四年の夏にリクルーターとして彼女がゼミにやってきたときは、何も悩むことなくこの会社を受けることにした。
 入社後偶然にも同じ部署に配属されてからは、仕事でもプライベートでも安心して相談できる、頼れる姉のような存在だった。

『カナちゃん、ダメよそんなこと言っちゃ。あいつらだって、あれで結構人望あるんだからさ』
『それとこれとは話が違います! 仕事を正当に評価されないんだったら、わたしたち何のために働いてるのかわかんないです!』

 先輩は何も言わず、困ったように微笑むだけだった。
 他の部署でも、同じようなことが起きているようだった。たまに同期の女の子で集まると、その話ばかり。

『森崎のバカ急に偉そうになっちゃってさ、相田さんとかにコピー取らせたりしてんのよ。どういう神経してんのかしら』
『なんかみんな先輩たちに話しづらそうなのよ。課長とかも変に意識しちゃってるみたい』

 職階で自分が上に立ったからといって、いきなり笠に着るバカばかりでもない。同期の、そして上司の男達は“できる女”を明らかに扱いかねていた。
 そして、三品先輩の退職が契機になった。

『これからどうするんですか』
『うん、わたし鍵っ子だったからさ。ちゃんとお母さんがいる家庭に憧れてたのよ。いい機会だし、辞めようと思う』

 先輩の結婚相手は、サークルの同期でわたしもよく知っている人だった。以前からつきあっているのは知っていたが、結婚には至らないだろうというぼんやりとした予感があった。
 そしてどうやらそれは単なるわたしの願望だったらしい。

 ──あの人のために、仕事を辞めるんですか
 ──ここで引き下がるのは、負けじゃないんですか
 ──悔しくないんですか

 そこまでは、言えなかった。


水際の泡沫たち その2

 頭が痛い。
 胃の中には石でも詰まっているような気分だ。
 目の下の隈を隠すため、珍しく念入りに壁を作る。

 夕べは久しぶりに痛飲した。
 崩れないカナコさん伝説も、とうとう終わりを告げてしまった。
 おまけに泥酔状態のままプリクラまでさせられて。あの情けない顔が記念で残っているなんて、悪夢以外の何物でもない。

『カナコさーん……おれ、カナコさんのこと大好きだったんですよお』

 うん、知ってたよ。ゴメンね。

『どさくさにまぎれて何言ってんだコイツ!』
『谷本! 抜け駆けは卑怯だぞ」

 いやいや、みんなにも感謝してるわよ。君たちのフォローがあったからこそ、わたしは好きなように仕事ができたんだからね。

『なにいってんのよ、カナコ先輩は並の男じゃなびかないわよー』

 これこれ恵美ちゃん、勝手なこと言わんでくれ。
 一応わたしにだって結婚願望あるんだよ。
 これ以上男遠ざけてどうすんの。

     *

 わたしが配属される新規部署の詳細は誰も知らないようだ。部長ですら朝の幹部会議で初めて聞かされたという。
 でもわたしは辞令を受け取る前から設立に至る経緯を知っていた。

「この階って、なんか世界違うよね」
「なによそれ。ひょっとして嫌み言ってるつもり?」
「まさか、畏れ多い。けど、あの千絵が会話のニュアンスを読むようになるなんて、なるほど秘書業も楽じゃなさそうね」
「あんたねえ……浮いた話のひとつもない悲しいキャリアガールに愛の手を差し伸べてる友人に向かってずいぶんな言いぐさじゃない」
「はいはい。持つべきものは玉輿の友人、ってね」

 この日は同期で副社長付き秘書の安藤千絵と昼食を共にすることになっていた。
 多分いつものように、旦那の知り合いとお近づきになるためのセッティングをしてくれているのだろう。
 わたし自身は別にそこまでしてもらうほど落ちぶれてもいないと思っているが、単純に“同年代の女友達でお喋りのできる相手”と言うことで毎回話に乗ることにしている。今のところその気になるような相手には巡り会えていないが、千絵曰くそれはわたしの努力不足というか怠慢によるものらしい。

 実際、同期で会社に残っている女性は数えるほどである。ほとんどは寿退社してしまっているし、数少ない能力のある人間はバブルの最後の波に乗って独立していった。

 そんな中、社内で唯一の独身三十女であるわたしと、社長息子と結婚しておきながら『将来、夫を側で支えるための勉強を続けたいんです!』というもっともらしい理由で(しかし実際は『旦那は愛してるけどお義父さんの会社にいたら息が詰まる』から)秘書業を続けている千絵。この同期ふたりは社内でも特別浮いた存在だ。

 かつて“新人類”と呼ばれた平成一年生。わたしたちは、入社時には男達と全く対等の感覚で仕事に向かっていた。上司達の評価も、同期の中ではおしなべて女性の方が高かった。
 雇用機会均等法施行後の第一期生である先輩達が、昇進の時期を迎えるまでは。