「 SS 」一覧

水際の泡沫たち その4

 わたしはブーケに手を伸ばさなかった。
 何も言わず視線だけを外さないわたしに、純白のドレスに身を包んだ先輩はちょっと悲しそうな顔をしてこう言った。

『カナちゃん、ゴメンね。後に続くあなた達にわたしは何もできなかった。けど、辛いことがあったら今まで通りに相談に来てほしい。わたしができなかったことじゃなくて、あなたにしかできないことを実現して欲しいから』

 でも結局、先輩とはそれ以後没交渉になってしまった。
 わたしは、立ち止まるのがイヤだった。
 後ろを見るのがイヤだった。
 立ち止まって、廻りを見てみるだなんてまっぴらだった。
 違う価値観を認めることは、自分の存在価値を否定することにしか見えなかった。

 そして、おそらく同期では最も優秀だった三品先輩の退職を皮切りに、女性総合職第一期の先輩達は次々と会社から消えていった。
 仕事もそこそこに、毎日のようにパーティへ出向く人。
 上司に急に愛想が良くなる人。
 暇さえあれば履歴書を書き直している人。
 転職情報誌を常に手放さない人。
 各々が、それぞれの不安を解消する手段を模索していた。

「カナコ、似てきたよね」

 二杯目のアッサムをカップに注ぎながら、千絵が呟く。

「誰によ」

 素っ気ない返事を返すわたしの前では、ホットミルクがかろうじて湯気を立てている。
 最近胃の調子がよくない。定期診断で問題が出るほどの症状ではないが、まず間違いなくストレスによる胃炎だろう。医者に行った方がいいのは判っているのだが、『休みなさい』と言われたときの返答が用意できないまま延ばし延ばしにしてしまっている。体重もベスト時から三キロぐらい減っていた。

「先輩よ、三品さん。あんた入社直後はネコのノミみたいにくっついてたじゃない」

 ずいぶんな言い方をしてくれる。
 でも、千絵との歯に衣を着せない会話は今のわたしにとって貴重な精神安定剤だ。慕ってくれる後輩はいるし、上司の信頼も篤い方だろう。しかし、どちらにも一歩引いたような印象を拭いきれない。野良猫に手を伸ばすような、ややよそよそしい感じがいつもどこかに漂っていた。

 ──泣いてる子供のようにでも見えるのかしらね。

「ネコノミとは何よ。確かに三品先輩からは色々教わったけど、たった二年の間よ。だいたい先輩は二十五で辞めちゃったんだから、そっから先は比較しようがないじゃない」
「まあねー。けどなんていうかさ、やっぱ感じは似てるよ。わたしも結構ファンだったし、それなりに観察した結果としてね」
「わたしを? やあねえ、旦那が泣くわよ」
「おバカ……」

 一息ついて、同時にカップをすする。

 社屋の最上階にあるこのカフェテラスは、基本的に役員および同伴者の利用に限定されている。ただし、秘書課の女子職員に関しては、昼休みに限りフリーパスという粋な計らいがなされていた。
 もちろん通常の客席からは死角になっていて、来客に余計なことを言われないように配慮ずみだ。
 千絵はわたしと逢うとき大抵ここを利用することにしていたので、最近ではわたしも顔馴染みになってしまった。待ち合わせて先に一人で訪れることも何度かに渡っている。

「……それで」
「ん?」
「どこが似てるって」


水際の泡沫たち その3

『絶対おかしいですよ! 金谷さんや、日下部さんだって……先輩の半分も実績上げてないじゃないですか! あの人達が主任になって、先輩がなれないなんて誰が見たって変です!』

 三品亮子は大学の二年先輩だった。
 サークルでよく構ってもらったこともあり、卒論で手一杯だった四年の夏にリクルーターとして彼女がゼミにやってきたときは、何も悩むことなくこの会社を受けることにした。
 入社後偶然にも同じ部署に配属されてからは、仕事でもプライベートでも安心して相談できる、頼れる姉のような存在だった。

『カナちゃん、ダメよそんなこと言っちゃ。あいつらだって、あれで結構人望あるんだからさ』
『それとこれとは話が違います! 仕事を正当に評価されないんだったら、わたしたち何のために働いてるのかわかんないです!』

 先輩は何も言わず、困ったように微笑むだけだった。
 他の部署でも、同じようなことが起きているようだった。たまに同期の女の子で集まると、その話ばかり。

『森崎のバカ急に偉そうになっちゃってさ、相田さんとかにコピー取らせたりしてんのよ。どういう神経してんのかしら』
『なんかみんな先輩たちに話しづらそうなのよ。課長とかも変に意識しちゃってるみたい』

 職階で自分が上に立ったからといって、いきなり笠に着るバカばかりでもない。同期の、そして上司の男達は“できる女”を明らかに扱いかねていた。
 そして、三品先輩の退職が契機になった。

『これからどうするんですか』
『うん、わたし鍵っ子だったからさ。ちゃんとお母さんがいる家庭に憧れてたのよ。いい機会だし、辞めようと思う』

 先輩の結婚相手は、サークルの同期でわたしもよく知っている人だった。以前からつきあっているのは知っていたが、結婚には至らないだろうというぼんやりとした予感があった。
 そしてどうやらそれは単なるわたしの願望だったらしい。

 ──あの人のために、仕事を辞めるんですか
 ──ここで引き下がるのは、負けじゃないんですか
 ──悔しくないんですか

 そこまでは、言えなかった。


水際の泡沫たち その2

 頭が痛い。
 胃の中には石でも詰まっているような気分だ。
 目の下の隈を隠すため、珍しく念入りに壁を作る。

 夕べは久しぶりに痛飲した。
 崩れないカナコさん伝説も、とうとう終わりを告げてしまった。
 おまけに泥酔状態のままプリクラまでさせられて。あの情けない顔が記念で残っているなんて、悪夢以外の何物でもない。

『カナコさーん……おれ、カナコさんのこと大好きだったんですよお』

 うん、知ってたよ。ゴメンね。

『どさくさにまぎれて何言ってんだコイツ!』
『谷本! 抜け駆けは卑怯だぞ」

 いやいや、みんなにも感謝してるわよ。君たちのフォローがあったからこそ、わたしは好きなように仕事ができたんだからね。

『なにいってんのよ、カナコ先輩は並の男じゃなびかないわよー』

 これこれ恵美ちゃん、勝手なこと言わんでくれ。
 一応わたしにだって結婚願望あるんだよ。
 これ以上男遠ざけてどうすんの。

     *

 わたしが配属される新規部署の詳細は誰も知らないようだ。部長ですら朝の幹部会議で初めて聞かされたという。
 でもわたしは辞令を受け取る前から設立に至る経緯を知っていた。

「この階って、なんか世界違うよね」
「なによそれ。ひょっとして嫌み言ってるつもり?」
「まさか、畏れ多い。けど、あの千絵が会話のニュアンスを読むようになるなんて、なるほど秘書業も楽じゃなさそうね」
「あんたねえ……浮いた話のひとつもない悲しいキャリアガールに愛の手を差し伸べてる友人に向かってずいぶんな言いぐさじゃない」
「はいはい。持つべきものは玉輿の友人、ってね」

 この日は同期で副社長付き秘書の安藤千絵と昼食を共にすることになっていた。
 多分いつものように、旦那の知り合いとお近づきになるためのセッティングをしてくれているのだろう。
 わたし自身は別にそこまでしてもらうほど落ちぶれてもいないと思っているが、単純に“同年代の女友達でお喋りのできる相手”と言うことで毎回話に乗ることにしている。今のところその気になるような相手には巡り会えていないが、千絵曰くそれはわたしの努力不足というか怠慢によるものらしい。

 実際、同期で会社に残っている女性は数えるほどである。ほとんどは寿退社してしまっているし、数少ない能力のある人間はバブルの最後の波に乗って独立していった。

 そんな中、社内で唯一の独身三十女であるわたしと、社長息子と結婚しておきながら『将来、夫を側で支えるための勉強を続けたいんです!』というもっともらしい理由で(しかし実際は『旦那は愛してるけどお義父さんの会社にいたら息が詰まる』から)秘書業を続けている千絵。この同期ふたりは社内でも特別浮いた存在だ。

 かつて“新人類”と呼ばれた平成一年生。わたしたちは、入社時には男達と全く対等の感覚で仕事に向かっていた。上司達の評価も、同期の中ではおしなべて女性の方が高かった。
 雇用機会均等法施行後の第一期生である先輩達が、昇進の時期を迎えるまでは。


水際の泡沫たち その1

「役員直轄、ですか」

 朝からイヤな予感はしていたのだ。

「ああ。それに伴い、一日付けでおまえも室長だ。同期じゃトップ昇進だな」

 出掛けにパンプスのヒールが折れた。

「部長以下五人の小さな部署だが、社長派の査察部長が目を付けてる。これまでのように自由には動けないと思ってくれ」

 お気に入りのバッグのストラップが切れた。

「お前みたいに使えるやつをみすみす手放すのはオレとしても癪でなあ。色々やってみたんだが、会長の肝入りとあってみんなビビっちまってる。残念だが、どうしようもない」

 こんな日の辞令なんて、絶対ろくでもない話に決まってる。

「それでも担当部長が外園だというのはせめてもの救いだよ。昼行灯みたいな顔してヤツは結構切れ者だからな。お前も含めて自分たちが割を食うような事は絶対にしないはずだ」

 西尾部長、もう私は上司に何も期待してません。

「後の細かいことは外園に聞け。今は関連事業部で待機中だからいつでも相手をしてくれるだろう。もちろん困ったことがあったら遠慮なく相談に来い」

 言うだけ言って、部長は会議に行ってしまった。呆然としている私を、パーティションの向こう側で聞き耳を立てていた同僚達が取り囲む。

「藤村さん室長ってマジっすか」
「やー、会社もちゃんと見るところは見てるんだなあ」
「けどカナちゃんいなくなっちゃったらうちの部大丈夫かな」
「ダメですよ課長、気持ちよく送り出さなきゃ」

 みんな楽しそうだなあ。なんでだろ。

「よーしお前ら水曜日は明けておけよ。藤村さんの昇進お祝いで一席設けるぞ」
「オッケー。午後からのアポ全部キャンセルしますよ」
「カナコさんと飲むのって、久しぶりだよな」

 胃の収縮する音が聞こえる。

「……中華は避けてね」

 消え入るようなひとことが精一杯だった。